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川勝広勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広勝
時代 江戸時代中期
生誕 享保3年(1718年
死没 安永2年12月2日1774年1月13日
別名 茂八郎、又兵衛(通称)
戒名 義松(法名)
墓所 東京都港区の青龍寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家重家治
氏族 本姓:秦氏秦河勝後裔
名字:川勝氏
父母 父:川勝隆明
母:津軽越中守家臣津軽政朝の養女、
養父:川勝広良
兄弟 隆光広勝
女子(川勝隆雄室)
正室:藤堂良秀の娘
広次(婿養子。藤堂良徳の二男)、
某(茂八郎)、女子(川勝広次室)、
女子(岡野盛明室、後に大澤定量室)
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川勝 広勝(かわかつ ひろかつ)は、江戸時代中期の旗本。広氏流川勝家の4代当主。

生涯

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享保3年(1718年)、川勝隆明の三男として江戸に生まれ、後に川勝広良の養子となった。延享2年(1745年)閏12月26日、義父広良の死去により、その家督(丹波国氷上郡内700石)を継ぎ、小普請となった。

延享3年(1746年)3月23日、初めて将軍徳川家重に拝謁した。延享4年(1747年)5月16日より書院番に列した。

安永2年12月13日(1774年1月13日)、56歳で没した。家督は婿養子の広次が継いだ[1]

脚注

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  1. ^ 広勝が藤堂氏から正室を迎えた縁で、藤堂氏から婿養子の広次を迎えたと推測される。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
  • 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年


先代
広良
川勝継氏系広氏流
4代:1745年 - 1773年
次代
広次