川勝広勝
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保3年(1718年) |
死没 | 安永2年12月2日(1774年1月13日) |
別名 | 茂八郎、又兵衛(通称) |
戒名 | 義松(法名) |
墓所 | 東京都港区芝の青龍寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家重→家治 |
氏族 |
本姓:秦氏、秦河勝後裔 名字:川勝氏 |
父母 |
父:川勝隆明、 母:津軽越中守家臣津軽政朝の養女、 養父:川勝広良 |
兄弟 |
隆光、広勝、 女子(川勝隆雄室) |
妻 | 正室:藤堂良秀の娘 |
子 |
広次(婿養子。藤堂良徳の二男)、 某(茂八郎)、女子(川勝広次室)、 女子(岡野盛明室、後に大澤定量室) |
川勝 広勝(かわかつ ひろかつ)は、江戸時代中期の旗本。広氏流川勝家の4代当主。
生涯
[編集]享保3年(1718年)、川勝隆明の三男として江戸に生まれ、後に川勝広良の養子となった。延享2年(1745年)閏12月26日、義父広良の死去により、その家督(丹波国氷上郡内700石)を継ぎ、小普請となった。
延享3年(1746年)3月23日、初めて将軍徳川家重に拝謁した。延享4年(1747年)5月16日より書院番に列した。
安永2年12月13日(1774年1月13日)、56歳で没した。家督は婿養子の広次が継いだ[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
- 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年
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