川勝貞徳
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時代 | 江戸時代前期 - 江戸時代中期 |
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生誕 | 貞享2年(1685年) |
死没 | 宝暦7年7月21日(1757年9月4日) |
別名 | 右衛門八、與茂八(通称) |
戒名 | 徳翁(法名) |
墓所 | 東京都渋谷区神宮前の長泉寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家継→吉宗→家重 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 |
父:新庄氏、母:某氏 養父:川勝貞久(御家人) |
兄弟 | 貞徳 |
妻 | 正室:川勝貞久の娘 |
子 | 氏記 |
川勝 貞徳(かわかつ さだのり)は、江戸時代前期から中期の旗本。貞徳流川勝家の初代当主。
生涯
[編集]貞享2年(1685年)、新庄氏の男子として江戸に生まれ、後に川勝貞久の婿養子となった。正徳3年(1713年)11月29日、義父貞久の家督(禄高は不明)を継ぎ、表火番、挑灯奉行、徒目付等を経て植木奉行に至った。その後、作事下奉行となり、拝謁を許され、旗本家を興した。家紋は釘抜、五三桐。通し字は「氏」。
享保20年(1735年)12月19日、畳奉行に進んだ。元文元年(1736年)鶴岡八幡社補修の時、同年7月24日に命を受けて鎌倉に赴き、日光山御宮修造の時にも日光山に出かけた。元文4年(1739年)12月18日、表台所頭となったが、寛保2年(1742年)5月12日に配下の者の養子の事について落度があり、配下の者と伴に逼塞となり、同年8月28日に許された。延享4年(1747年)8月13日、江戸城西の丸勤めとなり、宝暦6年(1756年)7月25日に老いのため職を辞して、小普請となった。この時、黄金2枚を給わった。
宝暦7年(1757年)6月14日に隠居し、同年7月21日、73歳で没した。家督は嫡男の氏記が継いだ。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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