川勝隆安
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時代 | 江戸時代中期 - 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛延2年(1749年) |
死没 | 文化8年閏2月28日(1811年4月20日) |
別名 | 内記、平左衛門(通称) |
墓所 | 東京都港区赤坂の法安寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 |
父:小笠原持賢、母:川勝光隆の娘 養父:川勝隆恭 |
兄弟 | 小笠原持易、隆安 |
妻 | 正室:川勝隆恭の娘 |
子 |
隆壽、隆延、某(與八郎)、 某(榮之丞)、女子(川勝広土室)、女子、 女子、女子 |
川勝 隆安(かわかつ たかやす)は、江戸時代中期から後期の旗本。隆房流川勝家の5代当主。
生涯
[編集]寛延2年(1749年)、小笠原持賢の二男として生まれ、後に川勝隆恭の婿養子となった。安永2年(1773年)12月22日、初めて将軍徳川家治に謁見した。安永5年(1776年)6月20日、甥の小笠原舘次郎持齢が若年のため、射礼師範(弓術)の後見をするよう命を受けた[注釈 1]。同年9月10日、義父隆恭の死去により、その家督(蔵米400俵)を継いだ。
同年12月20日、懇意の者が弓術修行にあたっている事を慰労して、将軍家治より時服二領を給わった。後にこの先例により毎年時服を給わり、また弓場始、大的台覧の時も給う物があった。天明元年(1781年)5月7日に小姓組に列し、天明5年(1785年)2月4日、甥・持齢が年長になったため、後見役を免ぜられた。寛政12年(1800年)1月25日、書院番から膳奉行に転じた。
文化8年(1811年)閏2月28日、63歳で没した。家督は嫡男の隆延が継いだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
- 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典(第2巻)』東洋書林、1998年
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