川原町 (新宮市)
川原町(かわらまち)はかつて和歌山県新宮市に存在した河川敷上の集落である。
川原町とは釘を使わない簡易建築「川原家」[注 1]からなる集落で、熊野川の河口、熊野大橋のある付近に形成されていた。川原家は洪水が迫ると解体され、水が引くと再び組み立てられるという仕組みである。
歴史
[編集]熊野川の川原における集落の存在に言及した最古の文献は、『熊野年代記』の宝亀9年(778年)の項である。この年、川原に家が建てられたが、8月の洪水で流されてしまったという[注 2]。この家が後の川原家と同じ形態であったかどうかも不明であり、この記述自体についても後の川原町と同じ場所を指すかどうかは不明とする立場もある[5]。平安時代には既に何軒かの家が建てられていたと推測する向きもあるが[6]、『熊野年代記』以降は文献がなく、詳細は不明である[4]。
次に川原の集落が文献に現れるのは寛文9年(1669年)である。このような場所に集落が形成された理由は、熊野川の上流から切り出されて船で運ばれた木材が河口の水面に浮かべて取引されたほか、海運で入った物資もここで川舟に積み替えられて上流に運ばれたため、物流と商取引の中心地となっていたことにある。
最盛期には300軒近くの建物があった。1920年(大正9年)9月には建築学者の今和次郎も新宮を訪れ、川原家の調査を行っている[7]。しかし1935年(昭和10年)に熊野川に橋が架かると川原町は徐々に衰退し、1950年(昭和25年)までに集落は消失した[注 3]。元の住人が川原家の部材を市内に持ち込んで、固定住宅として住んだ家は1970年代まで存在した[10]。
文学作品における言及
[編集]文学作品に川原町が描かれることもあり、新宮出身の作家佐藤春夫は自伝的小説『わんぱく時代』で川原町に触れている[11][12]。同様に新宮生まれで、地元を舞台とした作品の多い中上健次、三重出身だが和歌山に住んだ宇江敏勝も、作品に川原町を登場させている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 新宮市 1938, p. 689.
- ^ 新宮市 1972, p. 243.
- ^ 『熊野年代記』篠原四郎、1972年、8ページ。
- ^ a b 矢熊 1998, p. 138.
- ^ 『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編纂、角川書店、1985年、316ページ。ISBN 4-04-001300-X。
- ^ 新宮市 1972, p. 243; 蒸野 1976, p. 15.
- ^ 松尾一郎「「川原家」往時の姿 洪水時には解体、避難できる熊野川の家 建築学者・民俗学研究家 今和次郎氏の資料発見 工学院大に調査ノートと写真『朝日新聞』2007年(平成19年)9月29日付大阪本社朝刊28面(和歌山)。
- ^ 藤井満「紀州 黒潮の半島 No.29 熊野灘 解体・組み立て 川原の家」『朝日新聞』2017年(平成29年)3月2日付大阪本社夕刊9面。
- ^ 蒸野 1976, p. 16.
- ^ 本多 1992, p. 28.
- ^ 佐藤春夫「わんぱく時代(65) 時いたる 一」『朝日新聞』昭和32年12月23日付東京本社夕刊6面。
- ^ 佐藤春夫『わんぱく時代』大日本雄辯會講談社、1958年、138-139ページ。
参考文献
[編集]- 青木壽子「新宮の川原家」『地理敎材硏究』第一輯、地理敎材硏究會編纂、目黑書店、1922年、129-131ページ。
- 佐藤良雄「遡行熊野川」『熊野誌』第19号、新宮市立図書館編集、熊野地方史研究会、1973年、31-36ページ。
- 新宮市(編纂)『新宮市誌』新宮市、1938年。
- 新宮市史編さん委員会(編纂)『新宮市史』新宮市役所、1972年。
- 本多昭一「〔防災・先人の知恵〕自然に逆らわずに生きた町――新宮川原町の例――」『建築とまちづくり』第189号、1992年12月、24-28ページ。
- 丸山奈巳「大水から逃げる街―新宮川原町(一)」『熊野誌』第52号、熊野地方史研究会・新宮市立図書館、2006年12月、54-82ページ。
- 丸山奈巳「大水から逃げる街―新宮川原町(二)」『熊野誌』第53号、熊野地方史研究会・新宮市立図書館、2007年12月、70-100ページ。
- 蒸野明男「新宮川原町 プレハブの街」『ひろば』第150号、近畿建築士会協議会、1976年10月、15-16ページ。
- 矢熊敏男「熊野川の新宮川原にあった「川原家」(折り畳み式家屋)の集落」『熊野誌』第44号、熊野地方史研究会、1998年12月、138-152ページ。
外部リンク
[編集]- 川原町横丁(新宮市観光協会)