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川端清策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川端 清策(かわばた せいさく、1906年8月31日[1]1985年4月11日[2])は、日本教育者生物学者で学校経営者だった人物。群馬県伊勢崎市出身。理学博士北海道大学)。専門は、生物学生態学

1924年茨城県立太田中学校(現茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)卒。1924年群馬県佐波郡豊受尋常高等小学校代用教員、1926年北海道空知郡岩見沢町志文尋常小学校代用教員。軍隊に入隊を経て、1931年第二高等学校 (旧制)卒、1935年北海道帝国大学理学部卒業(恩師:山田幸男)。1935年東海高等女学校(現茨城県立第二日立第二高等学校)教諭、1937年茨城県師範学校教諭。1940年日立製作所中央研究所研究員[3]。1946年北海道夕張市立中学校(現北海道夕張北高等学校)教諭、1950年北海道岩見沢西高等学校教諭、1952年北海道学芸大学岩見沢分校助教授、1956年同教授。その後、同岩見沢分校主事。1962年2月2日「日本産ムカデノリ科の分類への寄与」で北海道大学にて理学博士受く[4]。1965年北海道教育大学岩見沢分校副学長。1970年同停年退官。同名誉教授。高崎経済大学経済学部教授。同学長代行などを経て、1974年高崎経済大学学長。1976年停年退官。道都短期大学副学長。1978年道都大学の開学に伴い同副学長。正五位勲三等旭日中綬章を受章。1979年学校法人北海道櫻井産業学園常務理事[5]。1982年道都大学定年退職。同名誉教授。同特任教授。1984年同海洋生物研究所初代所長。1984年道都短期大学学長[6]。1985年同大学在任中に逝去。叙従四位[7]

脚注

[編集]
  1. ^ 『日本紳士録 64版』1977 p126
  2. ^ 『北からの発想』1988 p288
  3. ^ 以上につき、『日本紳士録 64版』1977 p126
  4. ^ 博論データベース
  5. ^ 『オホーツクの学舎で』1983 p195・p200
  6. ^ 以上につき「川端清策先生の御逝去を悼む」『藻類』日本藻類学会 1985 p279
  7. ^ 以上につき、『北からの発想』1988 p288
学職
先代
三潴信吾
高崎経済大学学長
第6代
次代
庄司哲太