巨勢黒麻呂

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巨勢 黒麻呂(こせ の くろまろ)は、飛鳥時代貴族。名は黒丸とも記される[1]左大臣巨勢徳多の子で、邑治小邑治の父。冠位小錦中中納言だが、後述するように、官職については疑義がある。

考証[編集]

その経歴や人生については、不明な点が多いが、『続日本紀』の巨勢邑治の薨伝[2]から、以下のことが分かる。

  1. 彼の冠位である小錦中は、天智天皇3年(664年)2月制定の冠位二十六階の第11等であり、高位ではあった。しかし、天武天皇14年(685年)正月には冠位四十八階が制定されている。
  2. 中納言慶雲2年(705年)4月制定の令外官であり、天智・天武朝には存在していない。天武朝になって設置され、「納言」に、後世になって「中」の文字を挿入したものと推定される[3]。納言の文字は天武天皇9年(680年)の舎人王[4]、持統天皇元年(687年)正月の布勢御主人にも見え[5]、天武朝では大臣が置かれなかったために、納言が最高の行政官であった。納言の官名は中国由来のもので『書経』「舜典」に見えるもので、の初期には門下省の長官(侍中)の称号であった。

以上のように、天武朝の高位・高官職の人物であり、天武天皇14年(685年)までに亡くなっている。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『公卿補任』天平9年巨勢朝臣堺麿の条
  2. ^ 『続日本紀』神亀元年6月6日条
  3. ^ 青木和夫田中卓氏の「中納言(その一)」を読む」『続日本紀研究』一 - 八
  4. ^ 『日本書紀』天武天皇下 9年7月25日条
  5. ^ 『日本書紀』持統天皇元年正月1日条

参考文献[編集]