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市川朝太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いちかわ あさたろう
市川 朝太郎
本名 山本 幸三郎 (やまもと こうざぶろう)
別名義 市川 蝠丸 (いちかわ ふくまる)
市川 婦久之助 (いちかわ ふくのすけ)
生年月日 1901年6月
没年月日 1949年2月16日
出生地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市左京区
職業 俳優
ジャンル 歌舞伎新劇新派劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1920年代 - 1949年
配偶者 香住佐代子
著名な家族 加戸敏(弟)
主な作品
演劇
唐人お吉
映画
忠次売出す
藤十郎の恋
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市川 朝太郎(いちかわ あさたろう、1901年6月 - 1949年2月16日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名山本 幸三郎(やまもと こうざぶろう)、旧芸名市川 蝠丸(いちかわ ふくまる)、市川 婦久之助(いちかわ ふくのすけ)[1][6][8][9]伊丹万作トーキー第1作『忠次売出す』に主演したことで知られる[1][2][3]

人物・来歴

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1901年(明治34年)6月、神奈川県横浜市に、加藤家の三男として生まれる[1][2][6]。7歳下の弟にのちの映画監督加戸敏(本名 加藤善太郎、1907年 - 1982年)がいる[1]。母方の姓を継ぎ、本名は山本姓となる[1]

山本家から一時期、遠藤家の養子に出され、その親戚である市川團右衛門に預けられて歌舞伎の世界に入り、「市川 蝠丸」を名乗る[1]。その後、二代目市川猿之助の「春秋座」、四代目河原崎長十郎の「心座」に参加する[1]。1930年(昭和5年)、日活太秦撮影所に入社、辻吉郎監督の『維新暗流史 第一篇』『維新暗流史 第二篇 大地に立上る者』、池田富保監督の『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻 地動の巻』等に「市川 婦久之助」の名で出演した[1][7][8]。1933年(昭和8年)、第二次芸術座に参加、川村花菱の『唐人お吉』で初代水谷八重子の相手役を務めたときの好演ぶりを白井信太郎に認められ、翌1934年(昭和9年)、トーキー時代の俳優として、当時松竹傘下であった新興キネマに入社、「市川 朝太郎」と改名する[1][3]

1935年(昭和10年)、新興キネマ京都撮影所に移籍した伊丹万作が、伊丹にとってのトーキー第1作『忠次売出す』を監督するにあたり、主役に抜擢される[1][3]。これも好評を得、作品は昭和十年度キネマ旬報ベストテン第4位を獲得したが、早々に同社を退社する[1][3]。この退社の原因について、加太こうじは「女性関係のもつれ」であると指摘している[10]。翌1936年(昭和11年)、東京のP.C.L.映画製作所に移籍、同社が合併して東宝映画となった後も継続的に東宝映画東京撮影所に所属、1938年(昭和13年)5月1日に公開された山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』で中村四郎五郎を演じた[1][3]。満39歳となった1940年(昭和15年)8月14日に公開された衣笠貞之助監督の『続蛇姫様』が、同社での最後の出演記録であり[3]、その後に退社して、移動劇団に参加した[1]

第二次世界大戦終結後は、大映京都撮影所でいくつかの映画に出演、満46歳を迎える1947年(昭和22年)秋、同年3月11日に公開された『闇を走る馬車』で共演した16歳下の女優香住佐代子と結婚、1男をもうけたが[11]、結婚の約1年半後の1949年(昭和24年)2月16日京都市左京区の高折病院で死去した[1][2]。満47歳没。

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[3][4][6]。公開日の右側には役名[3][4][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

日活太秦撮影所

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すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[7][8]。すべてサイレント映画、すべて「市川婦久之助」名義である[7][8]

新興キネマ京都撮影所

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忠次売出す』(1935年)のスチル写真。右から月形龍之介、馬を引く市川朝太郎、刀を抜く尾上松緑

特筆以外すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」である[3][4]。特筆以外すべてトーキー、以降すべて「市川朝太郎」名義[3][4]

P.C.L.映画製作所

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すべて製作は「P.C.L.映画製作所」、配給は「東宝映画」である[3][4]。以降すべてトーキーである[3][4]

東宝映画東京撮影所

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すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である[3][4]

大映京都撮影所

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すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[3][4][6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p キネマ旬報社[1979], p.48.
  2. ^ a b c d 市川朝太郎jlogos.com, エア、2013年1月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 市川朝太郎日本映画データベース、2013年1月15日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i 市川朝太郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 市川朝太郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月15日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 市川朝太郎KINENOTE, 2013年1月15日閲覧。
  7. ^ a b c d 市川婦久之助、日活データベース、日活、2013年1月15日閲覧。
  8. ^ a b c d 市川婦久之助、日本映画データベース、2013年1月15日閲覧。
  9. ^ a b c 市川婦久之助、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月15日閲覧。
  10. ^ 加太[1964], p.144.
  11. ^ 香住佐代子jlogos.com, エア、2013年1月15日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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