市来吉至
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いちき よしじ 市来 吉至 | |
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生誕 |
明治33年4月21日 (1900年4月21日) 日本 大隅国姶良郡帖佐村 (現)鹿児島県姶良市) |
死没 | 不詳 |
出身校 | 台北中学校,第七高等学校造士館,東京帝国大学法学部 |
時代 | 昭和 |
雇用者 | 台湾総督府,鹿児島市 |
活動拠点 | 日本、台湾 |
肩書き |
台湾総督府交通局 陸軍司政長官 鹿児島市交通局長 |
配偶者 | 市来智子 |
親 | 市来半次郎 |
親戚 | 伊丹松雄(妻の父) |
家族 | (兄)市来備一郎 |
栄誉 |
勲六等瑞宝章 勲五等瑞宝章 |
市来 吉至(いちき よしじ、1900年(明治33年)4月21日[1][2] - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。
経歴
[編集]市来半次郎の二男として[2]、鹿児島県姶良郡に生まれる[1]。台北中学から第七高等学校造士館を経て、1925年(大正14年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、台湾銀行に入行する[1]。1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格[1]。以後、台湾総督府交通局書記、地方理事官・高雄州岡山郡守、高雄台中各州内務部勧業課長、総督府事務官・鉄道部監督課長、鉄道部経理課長兼庶務課長兼交通局総務課長、鉄道部勤務などを経て[2]、1942年(昭和17年)6月、香港占領地総督部民事部長に就任した[1]。その後、1943年(昭和18年)3月、陸軍司政長官に任じた[2]。高雄港湾局長を経て、1945年(昭和20年)退官した[3]。戦後は、鹿児島に帰り鹿児島市交通局長、鹿児島県人事委員会委員などをつとめた。
- 1917年(大正6年)3月11日 台湾総督府台北中学校第一部を卒業[4]。
- 1922年(大正11年)3月15日 第七高等学校造士館文科甲類を卒業[5]。
- 1925年(大正14年)
- 1922年(昭和2年)
- 1924年(昭和4年)11月 高等文官試験行政科合格[8]。
- 1930年(昭和5年)
- 1931年(昭和6年)5月23日 高雄州勤務を命ず[11]。
- 1932年(昭和7年)4月20日 台中州勤務を命ず[12]。
- 1934年(昭和9年)5月10日 任台湾総督府専売局副参事兼台湾総督府事務官[13]。
- 1935年(昭和10年)
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1942年(昭和17年)
1943年(昭和18年)2月24日 任陸軍司政長官[28]。
- 1944年(昭和19年)12月16日 任台湾総督府港湾局長[29]。
- 1945年(昭和20年)
1951年(昭和26年)
1953年(昭和28年)5月13日 鹿児島市交通局長に就任。
親族
[編集]- 父 :市来半次郎(台湾総督府官僚、台東庁長)[2][34]
- 義父:伊丹松雄(妻智子の父、陸軍中将)[35]
- 兄 :市来備一郎(台湾総督府官僚、殖産局営林署雇[36]
- 妹 :とみ 台湾総督府高雄警察署長をつとめた下川静一に嫁ぐ[37]。
栄典
[編集]叙位
- 従七位 昭和5年12月1日[38]
- 正七位 昭和8年2月1日[39]
- 従六位 昭和10年5月15日[40]
- 正六位 昭和12年11月1日[41]
- 従五位 昭和15年8月15日[42]
- 正五位 昭和18年3月15日[43]
勲章その他
- 勲六等瑞宝章 昭和16年4月11日[44][45]
- 勲五等瑞宝章 昭和15年4月29日 支那事変文官行賞[46][47][48]
- 勲五等瑞宝章 昭和18年1月15日[49][50]
- 紀元二千六百年記念章 昭和15年11月10日[51]
脚注
[編集]- ^ a b c d e 興南新聞社 1943, 30頁.
- ^ a b c d e 帝国秘密探偵社 1943, 海外3頁.
- ^ 秦 1981, 556頁.
- ^ 『府報』第1525号「彙報」大正7年3月30日
- ^ 『官報』第2893号「彙報」大正11年3月28日
- ^ 『官報』第3818号「彙報」大正14年5月18日
- ^ a b c 「奉祝紀元二千六百年 躍進臺灣大觀續々編 臺灣特輯記念號」中外每日新聞社,1941年,p.108
- ^ 『官報』第847号「広告」昭和4年10月25日
- ^ 『台湾総督府報』第943号「叙任及辞令」昭和5年4月25日
- ^ 『台湾総督府報』第1094号「叙任及辞令」昭和5年11月1日
- ^ 『台湾総督府報』第1253号号外「叙任及辞令」昭和6年五月24日
- ^ 『台湾総督府報』第1505号号外「叙任及辞令」昭和7年4月22日
- ^ 『台湾総督府報』第2097号「叙任及辞令」昭和9年5月12日
- ^ 『台湾総督府報』第2483号「叙任及辞令」昭和10年9月3日
- ^ 『台湾総督府報』第2484号「叙任及辞令」昭和10年9月4日
- ^ 『台湾総督府報』第2538号「叙任及辞令」昭和10年11月12日
- ^ 。『台湾総督府報』第2824号「叙任及辞令」昭和11年11月3日
- ^ 『台湾総督府報』第2816号「叙任及辞令」昭和11年10月22日
- ^ 『台湾総督府報』第3298号「叙任及辞令」昭和13年6月5日
- ^ 『台湾総督府報』第3066号「叙任及辞令」昭和12年8月27日
- ^ 『台湾総督府報』第3370号「叙任及辞令」昭和13年8月26日
- ^ 『台湾総督府報』第3439号「叙任及辞令」昭和13年11月20日
- ^ 『台湾総督府報』第3489号「叙任及辞令」昭和14年1月26日
- ^ 『台湾総督府報』第3734号「叙任及辞令」昭和14年11月15日
- ^ 『台湾総督府報』第3739号「叙任及辞令」昭和14年11月21日
- ^ 「香港占領地総督部職名発表に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01000096000,昭和17年「陸亜密大日記 第7号 2/3」(防衛省防衛研究所)
- ^ 『台湾総督府報』第4447号「叙任及辞令」昭和17年3月24日
- ^ 『台湾総督府官報』第268号「叙任及辞令」昭和18年2月26日
- ^ 『台湾総督府官報」第847号「叙任及辞令」昭和19年12月17日
- ^ 『台湾総督府官報』第865号「叙任及辞令」昭和20年1月9日
- ^ 『台湾総督府官報』第916号「叙任及辞令」昭和20年3月5日
- ^ 『官報』第7254号「叙任及び辞令」昭和26年3月17日
- ^ 『運輸広報』第106号「叙任及び辞令」昭和26年8月10日
- ^ 橋本 1924, 77頁.
- ^ 帝国秘密探偵社編「大衆人事録 外地・満支・海外篇」,帝国秘密探偵社,1940年,p.台湾5
- ^ 台湾総督府編『台湾総督府及所属官署職員録』昭和10年7月1日現在,台湾時報発行所,1935年.p.130
- ^ 宮川次郎 著『新台湾の人々』,拓殖通信社,1926年,p.462
- ^ 『台湾総督府報』第1120号「叙任及辞令」昭和5年12月3日
- ^ 『台湾総督府報』第1729号「叙任及辞令」昭和8年2月3日
- ^ 『台湾総督府報』第2391号「叙任及辞令」昭和10年5月17日
- ^ 『台湾総督府報』第3123号「叙任及辞令」昭和12年11月3日
- ^ 『台湾総督府報』第3967号「叙任及辞令」昭和15年8月17日
- ^ 『官報』第4881号「叙任及辞令」昭和18年4月22日
- ^ 『台湾総督府報』第4163号「叙任及辞令」昭和15年4月13日
- ^ 『官報』第4284号「叙任及辞令」昭和16年4月21日
- ^ 『台湾総督府官報』第641号「叙任及辞令」昭和19年5月12日
- ^ 『官報』第5152号「叙任及辞令」昭和19年3月18日
- ^ 勲五等瑞宝章を二回授章することになるが、官報の発令どおりである。
- ^ 『台湾総督府報』第237号「叙任及辞令」昭和18年1月20日
- ^ 『官報』第4809号「叙任及辞令」昭和18年1月26日
- ^ 『官報』第4945号「辞令二」昭和18年7月8日
参考文献
[編集]- 橋本白水『評論台湾之官民』南国出版協会、1924年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。
- 秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年。