常照寺 (京都市)
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常照寺 | |
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所在地 | 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45 |
位置 | 北緯35度3分19.6秒 東経135度43分58.3秒 / 北緯35.055444度 東経135.732861度座標: 北緯35度3分19.6秒 東経135度43分58.3秒 / 北緯35.055444度 東経135.732861度 |
山号 | 寂光山 |
宗派 | 日蓮宗 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 元和2年(1616年) |
開山 | 日乾 |
開基 | 本阿弥光瑳 |
別称 | 檀林の寺、吉野の寺 |
法人番号 | 4130005002066 |
常照寺(じょうしょうじ)は、京都市北区にある日蓮宗の寺院。山号は寂光山。本尊は三宝尊。旧本山は身延山久遠寺。親師法縁。桜や紅葉の名所として有名である。
歴史
[編集]江戸時代の芸術家である本阿弥光悦は、慶長年間(1596年 - 1615年)の初年には現在の光悦寺の地に別宅を構えていたが、元和元年(1615年)に徳川家康により付近一帯の土地を与えられた。『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な地であったという。
翌、元和2年(1616年)に光悦とその養子・光瑳により「法華の鎮所」がこの地に建立された。これが当寺の起源である[1]。
元和5年(1619年)になり本格的にこの地に移り住んだ光悦は、一族や様々な工芸の職人とその家族ら100人以上を集住させて一大芸術村、いわゆる光悦村を作り上げた。また自らの屋敷の近くに法華題目堂を建立している。その法華題目堂は光悦の死後に光悦寺となっている。
寛永4年(1627年)に光瑳の招きによって日蓮宗の中興の祖日乾が「法華の鎮所」に入ると、日乾はこれを正式に寺院として整備して寂光山常照寺と名付け、学寮である檀林(鷹峰檀林)を開いた。後の最盛期には大小30余りの堂宇が建ち並び、学僧200余人が学んでいたと記録が残る。その頃には常照講寺とも呼ばれるようになっていた。
寛永5年(1628年)には日乾に帰依していた遊女の2代目吉野太夫により、山門(吉野門)が寄進されている。また、当寺には2代目吉野太夫の墓もあることから、当寺は2代目吉野太夫ゆかりの寺院となっている。
1872年(明治5年)に学制発布により鷹峰檀林が廃止されると、往年の賑やかさは失われてしまった。
境内
[編集]- 本堂 - 創建時は講堂であった。扁額「旃檀林」は日潮の筆。
- 庫裏
- 比翼塚 - 2代目吉野太夫と夫である豪商の灰屋紹益の供養塔。1971年(昭和46年)に片岡仁左衛門により建立された。
- 開山廟 - 日乾の墓。
- 2代目吉野太夫の墓
- 茶室「聚楽亭」
- 茶室「遺芳庵」 - 2代目吉野太夫を偲んで夫の灰屋紹益が寄進したもの。壁にある大きな円窓は2代目吉野太夫が好んだことから吉野窓という。円の一番下の部分は切り取られており、完全な円にはならないように作られている。
- 池
- 常富大菩薩堂 - 鎮守社。能勢妙見山で修行して常富大菩薩となった白狐を祀る。
- 宝蔵
- 鬼子母尊神堂
- 妙法龍神堂
- 帯塚 - 1969年(昭和44年)に伊豆蔵福治郎が発起人となって浄財を集め、建てられたもの。徳島県の吉野川産の自然石でできており、日本唯一の帯を供養する塚である。また、鷹峰三山を表している。
- 庭園 - 帯塚と共に中根金作による作庭。
- 山門(吉野門) - 寛永5年(1628年)に2代目吉野太夫によって寄進された朱塗りの山門。また2代目吉野太夫は下京区の蓮久寺にも朱塗りの山門を寄進している。
交通アクセス
[編集]- 京都市営バス源光庵前バス停下車
脚注
[編集]- ^ 本阿弥行状記