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平尾喜三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平尾喜三郎
ひらお きさぶろう
生年月日 1873年11月17日
出生地 日本の旗 日本 奈良県添上郡手貝町
(現・奈良県奈良市
没年月日 (1951-03-10) 1951年3月10日(77歳没)
前職 実業家
所属政党 研究会
称号 勲四等
子女 長男・平尾喜一

在任期間 1918年9月29日 - 1925年9月28日
1932年9月29日 - 1939年9月28日

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平尾 喜三郎(ひらお きさぶろう、1873年明治6年〉11月17日[1][2] - 1951年昭和26年〉3月10日[1][3])は、日本の実業家政治家沖縄の寄留商人[1]貴族院多額納税者議員を務めた。勲等は勲四等[3]

経歴

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奈良県添上郡手貝町(現奈良市手貝町[注釈 1])で、平尾喜八の長男として生まれる[1][2]1883年(明治16年)[1][注釈 2]、一家で沖縄に渡った[4]

反物行商などに従事し、雑貨商となり平尾商店を設立した[1]。その後、奄美大島に支店を設け琉球反物を取扱い、さらにアサヒビール味の素の沖縄代理店となる[1]1915年(大正4年)三共組帽子商会を設立しアダン葉帽子の製造・販売を行う[1][2]。その他、南陽酒造社長、沖縄県酒造組合長、同顧問、同連合会長などを務め[1][3]1935年(昭和10年)10月、那覇商工会議所が設立され初代会頭に就任した[1][3]

政界では、那覇区会議員を務め[1][3]1918年(大正7年)沖縄県最初の貴族院多額納税者議員選挙で当選して[4]、同年9月29日、同議員に就任し[5]1925年(大正14年)9月28日まで在任[3]1932年(昭和7年)多額納税者議員に再選され、同年9月29日、同議員に就任し[6]1939年(昭和14年)9月28日まで通算2期在任した[3]。この間、研究会に所属し[3]漢那憲和伊礼肇仲井間宗一崎山嗣朝らと協力して、沖縄県振興計画の策定などに尽力した[1][4]

1945年(昭和20年)2月、太平洋戦争末期に平尾商店を長男喜一に任せて、郷里の奈良県に引き揚げた[1]

親族

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  • 長男 平尾喜一 - 実業家・貴族院多額納税者議員

脚注

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注釈

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  1. ^ 『沖縄県人事録』531頁には「手具」とあるが、その地名は存在しないので「手貝」の誤植と判断した[2]
  2. ^ 『沖縄県人事録』531頁では1884年(明治17年)[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『沖縄大百科事典 下巻』324頁。
  2. ^ a b c d e 『沖縄県人事録』531頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』218頁。
  4. ^ a b c 『沖縄の百年 第1巻』155-157頁。
  5. ^ 『官報』第1848号、大正7年9月30日。
  6. ^ 『官報』第1727号、昭和7年9月30日。

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典 下巻』沖縄タイムス社、1983年。
  • 新里金福・大城立裕『沖縄の百年 第1巻=人物篇 近代沖縄の人びと』太平出版社、1969年。
  • 楢原友満編『沖縄県人事録』沖縄県人事録編纂所、1916年。