平成俊
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時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 建保5年(1217年) |
死没 | 正応5年閏6月28日(1292年8月12日) |
官位 | 正二位権中納言、大宰大弐 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 桓武平氏高棟王流 |
父母 | 父:平棟基、母:不詳 |
兄弟 | 平棟子 |
妻 | 不詳 |
子 | 棟望、棟俊、惟俊、棟成、女子(藤原資氏室)) |
平 成俊(たいら の なりとし)は、鎌倉時代の公卿。正二位、権中納言。父は平棟基。宗尊親王の生母である准三后従一位平棟子の兄弟である。
経歴
[編集]兄弟の平棟子が後嵯峨院の元に入内して宗尊親王を産んだことにより、父の官位を超えて中年以降に異例の昇進をした。
官歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 嘉禎3年1月24日 任豊後守、同日叙爵[1]
- 仁治4年(1243年)1月5日 叙従五位上
- 寛元元年(1243年)9月9日 任春宮少進[2]
- 寛元2年(1244年)3月6日 任宮内少輔
- 宝治2年(1248年)1月23日 任勘解由次官
- 宝治3年(1249年)10月29日 叙正五位下
- 建長3年(1251年)3月16日 補蔵人
- 建長6年(1254年)1月13日 任左少弁
- 建長8年(1256年)2月22日 叙正五位上
- 正嘉元年(1257年)1月10月19日 任権右中弁。同日、叙従四位下
- 正嘉2年(1258年)1月13日 任右中弁。同年7月9日、叙従四位上。同年8月20日、兼右宮城使。
- 正元元年(1259年)1月6日 叙正四位下。同年4月17日、兼春宮亮。
- 弘長元年(1261年)2月8日 任中宮亮。同年3月27日、任左中弁。同年4月7日、補蔵人頭。同年8月20日、兼皇后宮亮。同年9月26日、兼左宮城使。
- 弘長2年(1262年)12月21日 任参議。
- 弘長3年(1263年)1月28日 兼備前権守
- 文永元年(1264年)6月2日 叙従三位
- 文永3年(1266年)10月24日 参議を辞退。同年10月21日、本座を許される。
- 文永5年(1268年)1月7日 叙正三位
- 文永7年(1270年)12月4日 叙従二位
- 文永8年(1271年)10月13日 参議に還任
- 文永9年(1272年)7月11日 兼伊予権守
- 建治2年(1276年)4月16日 参議を辞退
- 建治3年(1277年)9月13日 任大宰大弐
- 弘安3年(1280年)5月5日 叙正二位
- 弘安6年(1283年)4月 大弐を止める
- 正応4年(1291年)4月6日 任権中納言。同年7月29日、権中納言を辞退。同年8月、出家。
- 正応5年閏(1292年)6月28日、薨去。(享年76)