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平有親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平有親
時代 鎌倉時代前期 ‐ 中期
生誕 建久5年(1194年
死没 文応2年1月4日1261年2月4日
改名 有親→真浄(法号)
別名 知親
官位 従二位参議
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 桓武平氏高棟
父母 父:平親国[1]、母:藤原光隆[1]
兄弟 惟忠有親範親
時継
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平 有親(たいら の ありちか)は、鎌倉時代初期から中期にかけての公卿桓武平氏高棟流、従三位平親国の次男。官位従二位参議

経歴

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後鳥羽院政期初頭の建仁元年(1201年女御藤原琮子の給により従五位下叙爵したのち、皇后宮少/大進として皇后範子内親王に仕える。建保3年(1215年順徳天皇中宮藤原立子中宮権大進に任ぜられ、翌建保4年(1216年)正月に従五位上に叙せられるが、同年2月に中宮権大進を辞する。

その後はしばらく散位であったとみられるが、承久3年(1221年承久の乱後に、勘解由次官五位蔵人に任ぜられ、翌貞応元年(1222年正五位下に昇叙される。嘉禄元年(1225年)7月に右少弁に任ぜられると、同年12月に権右中弁、嘉禄2年(1226年従四位下、嘉禄3年(1227年)従四位上・左中弁、寛喜2年(1230年正四位下弁官を務めながら順調に昇進する。寛喜3年(1231年)3月に蔵人頭内蔵頭に遷り、同年10月に秀仁親王が春宮に立てられると春宮亮を兼ね、翌貞永元年(1232年)秀仁親王の即位四条天皇)後に有親は参議に任ぜられ公卿に列した。

議政官として備中権守のみを帯びるも、貞永2年(1233年従三位嘉禎元年(1235年正三位と昇進する。嘉禎4年(1238年)閏2月に子息の時継を五位蔵人に補す代わりに参議を辞任するが、同年6月には従二位に至った。

延応2年(1240年)6月に出家し、真浄と号する[2]文応2年(1261年)1月4日薨去享年68[2]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 安田 1990, p. 342.
  2. ^ a b 安田 1990, p. 343.
  3. ^ 『弁官補任』

参考文献

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