平瀨照成
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 文化3年(1806年)9月3日 |
改名 | 前野大作→前野繁助→平瀨繁助 |
別名 |
通称:繁助、初名:大作 別名:孤昌 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 蜂須賀家・ |
藩 | 阿波徳島藩 |
氏族 | 阿波前野氏→平瀨氏の養子となる |
父母 |
父:前野且親、母:不詳 養父:平瀨有影 |
兄弟 | 井後義長、平瀨照成 |
妻 | 養父有影娘 |
子 | 根津信清室、平瀨英長、井後義方、他女子2人 |
平瀨 照成(ひらせ てるなり/てるしげ)は、江戸時代中期ごろの武士で、阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。阿波平瀨家の五代目当主で、本姓は源[1]。
生涯
[編集]照成は、阿波前野氏の浪人である前野大右衛門且親の嫡男に生まれた[1]。初名は大作とされ、父の通称である大右衛門、兄の初名である大蔵に共通する「大」の通字を用いた[1]。後に繁助と改めた[1]。
宝暦9年(1759年)6月23日、嗣子のいなかった平瀨所兵衛有影の婿養嗣子となり、平瀨繁助照成と称した[1]。平瀨氏は源姓を称していた[1]。
明和7年(1770年)正月22日、養父有影が病死すると、同年4月3日には有影の家督を継承する旨に相違ないことを下し置かれ、西岡兵馬組に入れられた[1]。
安永8年(1779年)3月19日、留守中に城山の番を仰せ付けられる[1]。また、同9年(1780年)3月4日には大谷御屋敷の作事奉行も加えて仰せ付けられる[1]。
天明元年(1781年)5月8日、病気につき役儀を免ずるよう願い、同月13日には長江縫殿組に入れられた[1]。同4年(1784年)12月14日、江戸まで付き従うよう仰せ付けられた[1]。
同5年(1785年)6月28日には乗船し、道中では道具の政務を取り仕切った[1]。7月23日には広間の番を仰せ付けられた[1]。翌年の帰国道中も道具の政務を取り仕切った[1]。
同7年(1787年)には他国の使者を饗応し、5月8日には巡見使の饗応もつとめた[1]。しかし同8年(1788年)8月8日に不心得なことがあって不届きとされ、知行70石を召し上げられたうえに、残高230石余りと家屋敷ともに嫡子の角右衛門英長に下し置かれた[1]。
系譜
[編集]脚注
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