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平瀨照成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平瀨 照成 / 平瀨 孤昌
時代 江戸時代中期
生誕 不詳
死没 文化3年(1806年9月3日
改名 前野大作→前野繁助→平瀨繁助
別名 通称:繁助、初名:大作
別名:孤昌
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家
阿波徳島藩
氏族 阿波前野氏平瀨氏の養子となる
父母 父:前野且親、母:不詳
養父:平瀨有影
兄弟 井後義長平瀨照成
養父有影娘
根津信清室、平瀨英長井後義方、他女子2人
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平瀨 照成(ひらせ てるなり/てるしげ)は、江戸時代中期ごろの武士で、阿波徳島藩蜂須賀家に仕えた。阿波平瀨家の五代目当主で、本姓は[1]

生涯

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照成は、阿波前野氏浪人である前野大右衛門且親の嫡男に生まれた[1]。初名は大作とされ、父の通称である大右衛門、兄の初名である大蔵に共通する「大」の通字を用いた[1]。後に繁助と改めた[1]

宝暦9年(1759年6月23日、嗣子のいなかった平瀨所兵衛有影の婿養嗣子となり、平瀨繁助照成と称した[1]平瀨氏源姓を称していた[1]

明和7年(1770年正月22日、養父有影が病死すると、同年4月3日には有影の家督を継承する旨に相違ないことを下し置かれ、西岡兵馬組に入れられた[1]

安永8年(1779年3月19日、留守中に城山の番を仰せ付けられる[1]。また、同9年(1780年3月4日には大谷御屋敷作事奉行も加えて仰せ付けられる[1]

天明元年(1781年5月8日、病気につき役儀を免ずるよう願い、同月13日には長江縫殿組に入れられた[1]。同4年(1784年12月14日、江戸まで付き従うよう仰せ付けられた[1]

同5年(1785年6月28日には乗船し、道中では道具の政務を取り仕切った[1]7月23日には広間の番を仰せ付けられた[1]。翌年の帰国道中も道具の政務を取り仕切った[1]

同7年(1787年)には他国の使者を饗応し、5月8日には巡見使の饗応もつとめた[1]。しかし同8年(1788年8月8日に不心得なことがあって不届きとされ、知行70石を召し上げられたうえに、残高230石余りと家屋敷ともに嫡子の角右衛門英長に下し置かれた[1]

その後、文化3年(1806年9月3日に病死した[1]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』
先代
平瀨有影
阿波平瀨家
五代目当主
次代
平瀨英長