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平良正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平良正
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
別名 水守六郎
官位 下野介
氏族 桓武平氏高望王流(坂東平氏
父母 父:平高望平良茂ともされる)
兄弟 国香良兼良将良広良繇良文良茂良正藤原維幾
源護
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平 良正(たいら の よしまさ)は、平安時代中期の武将平高望の子[注釈 1]平良茂の子とする説もある[注釈 2]

略歴

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筑波山麓の常陸国水守(現:茨城県つくば市水守)を本拠とし源護の娘を妻とした。護の子らと甥の将門が争い、扶ら兄弟が討ち死し兄・国香が巻き込まれ亡くなった際、父高望亡き後上総介を次ぎ一族の長であった良兼は不介入であったが、良正は一族の将門ではなく外縁の源氏に真っ先に加勢して将門と争った[1]。この良正の行動により争いが益々激化する。承平5年(935年)10月、良正は将門追討の兵をあげ、それを察知した将門もすぐさま出陣、21日常陸国新治郡川曲村にて戦闘となる。双方激しく戦った末に良正は敗走、将門は翌日本拠の下総国豊田(現:茨城県常総市豊田)に引き上げた[2]

その後良正は上総の良兼に将門の乱暴を訴える。将門の岳父でありいわば親権者でもある良兼も放っておけず、承平6年(936年)6月、良兼は良正や国香の子貞盛らと共に下野国境にて将門と対戦、良兼が将門との対立の中心に立つようになり舅と婿の争いになった。現在は嫁入り婚であるが当時は婿が嫁の家に通うのが原則であり、良兼の娘が将門の元に走ったことにも抗争激化の一因がある[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 将門記』では「高望王の妾の子で平将門の伯父」とし、また「彼ノ常陸前掾源護ノ因縁ナリ」とあり、国香・良兼らと同じく源護と姻戚関係があると見られる。
  2. ^ 尊卑分脈』は、良正を高望の末子である良茂の子とし、公雅公義致成致頼らの父として長田氏三浦氏鎌倉氏長尾氏大庭氏梶原氏の祖と位置付ける。しかしその一方、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど混乱が見られる。

出典

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  1. ^ 梶原正昭『将門記 1』56頁~「良正の画策」
  2. ^ 梶原正昭『将門記 1』60頁~「川曲村の戦い」
  3. ^ 福田豊彦『平将門の乱』120頁~「女論」

参考文献

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登場作品

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テレビドラマ

関連項目

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