平親輔
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従三位、治部卿 |
氏族 | 桓武平氏高棟流 |
父母 |
父:平信季[1] 養父:平信基[1] |
子 | 範輔、時高[2] |
平 親輔(たいら の ちかすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家。刑部権大輔・平信季の子。内蔵頭・平信基の養子。
経歴
[編集]安元3年(1177年)左近衛将監に任官し、後白河院院司となる。寿永2年(1183年)正月に安徳天皇の六位蔵人に補せられるが、同年7月の平家の都落ちには同行せず、後鳥羽天皇践祚後の9月に従五位下に叙爵した。元暦元年(1184年)兵部少輔に任ぜられると、文治3年(1187年)従五位上に昇叙され、建久元年(1190年)には兵部少輔を辞する代わりに正五位下に叙せられている。
後鳥羽院政期に入り、正治2年(1200年)勘解由次官に任ぜられ、建永元年(1206年)土御門天皇の五位蔵人を兼ねる。承元元年(1207年)右少弁に遷ると、承元2年(1208年)左少弁、承元3年(1209年)従四位下・左中弁、承元4年(1210年)従四位上・右大弁、建暦元年(1211年)左大弁兼蔵人頭と弁官を務めながら昇進する。建暦2年(1212年)正月に正四位下に昇叙され、5月には従三位に叙せられて公卿に列した。
治部卿を引き続き兼帯したが、建保3年(1215年)12月22日に出家。最終官位は治部卿従三位。近衛基通の執事、近衛家実の家司、厩別当などを務めた[3]。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 安元3年(1177年) 正月24日:左近衛将監。日付不詳:後白河院判官代
- 寿永2年(1183年) 正月7日:六位蔵人。9月22日:従五位下(先朝蔵人、左近将監)
- 元暦元年(1184年) 10月6日:兵部少輔
- 文治3年(1187年) 正月5日:従五位上。5月20日:復任(祖父)
- 文治5年(1189年) 正月18日:長門介(兵部少輔兼国)
- 建久元年(1190年) 10月26日:正五位下(辞少輔叙之)
- 正治2年(1200年) 正月2日:勘解由次官
- 建仁3年(1203年) 正月13日:越後権介
- 建永元年(1206年) 10月20日:五位蔵人。22日:聴禁色
- 承元元年(1207年) 10月29日:右少弁(止次官蔵人)
- 承元2年(1208年) 10月12日:左少弁
- 承元3年(1209年) 正月13日:右中弁。正月17日:従四位下。4月14日:左中弁。4月21日:装束使。4月27日:兼左宮城使
- 承元4年(1210年) 正月14日:伊勢権守(装束使兼国)。8月21日:従四位上(春日行幸賞)。9月8日:右大弁
- 建暦元年(1211年) 正月18日:左大弁。10月12日:治部卿、蔵人頭
- 建暦2年(1212年) 正月5日:正四位下。5月21日:従三位、治部卿如元
- 建保3年(1215年) 12月22日:出家(治部卿従三位)
系譜
[編集]『系図纂要』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 藤原公定 撰『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 11』吉川弘文館〈故実叢書 第3輯〉、1904年 。
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社、1985年。ISBN 4404013027。
- 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496。