平随時
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛平2年(890年) |
死没 | 天暦7年12月18日(954年1月25日) |
官位 | 正四位下・参議 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 仁明平氏 |
父母 | 父:雅望王、母:藤原山蔭娘 |
兄弟 | 随時、希世 |
子 | 真正 |
平 随時(たいら の よりとき)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。仁明天皇の第五皇子本康親王の子である左馬頭・雅望王の三男。官位は正四位下・参議。
経歴
[編集]美濃権大掾・治部少丞・式部少/大丞を経て、醍醐朝後期の延長2年(924年)従五位下に叙爵する。同年に遠江守に任ぜられると、延長7年(929年)備中介、承平4年(934年)美濃権守と、醍醐朝後期から朱雀朝前期にかけて地方官を歴任し、延長7年(929年)治国の功労により従五位上に叙せられている。
承平8年(938年)左衛門権佐として京官に復すと、天慶2年(939年)正五位下、天慶5年(942年)従四位下と朱雀朝後半は順調に昇進する。のち、春宮権亮として春宮・成明親王に仕えたほか、修理大夫も務めた。
天慶9年(946年)成明親王が即位(村上天皇)すると正四位下・蔵人頭兼内蔵頭に抜擢され、天暦2年(948年)参議に任ぜられ公卿に列した。議政官として修理大夫を兼帯するが、天暦4年(950年)大宰大弐に任ぜられて大宰府に赴任する。
天暦7年(953年)12月18日に任所にて卒去。享年64。最終官位は参議正四位下行大宰大弐。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 延喜17年(917年) 正月29日:美濃権大掾(内竪頭労)
- 延喜18年(918年) 正月:治部少丞(内竪別当)
- 延喜21年(921年) 正月:式部少丞
- 延喜23年(923年) 正月:式部大丞
- 延長2年(924年) 正月7日:従五位下(宇多院御給、判官代)。2月1日:遠江守
- 延長7年(929年) 正月7日:従五位上(治国)。正月29日:備中介
- 承平4年(934年) 閏正月29日:美濃権守
- 承平8年(938年) 正月:防鴨河使。12月14日:左衛門権佐
- 天慶2年(939年) 正月7日:正五位下。正月16日:次侍従。2月1日:兼丹波守
- 天慶5年(942年) 4月25日:従四位下(権佐労)。12月:停権佐
- 天慶7年(943年) 正月22日[1]:兼春宮権亮
- 天慶8年(945年) 10月14日:兼修理大夫、亮如元
- 天慶9年(946年) 4月21日:昇殿。4月26日:蔵人頭。4月28日:正四位下(前坊亮)。7月17日:兼内蔵頭
- 天暦2年(948年) 正月30日:参議、修理大夫如元
- 天暦3年(949年) 正月24日:兼伊予守
- 天暦4年(950年) 日付不詳:止伊予守。正月20日:兼大宰大弐、止修理大夫
- 天暦7年(953年) 12月18日:於任所卒去(参議正四位下行大宰大弐)
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 或いは23日
参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年