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藤原山蔭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 山蔭
時代 平安時代前期
生誕 天長元年(824年
死没 仁和4年2月4日888年3月20日
別名 四条中納言、山陰
官位 従三位中納言
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族 藤原北家魚名
父母 父:藤原高房 母:藤原真夏の娘
兄弟 生丘智泉山蔭時長積善朝行尚忠
筑前介有孝の娘
有頼公利遂長言行兼三中正如無元善子、娘(藤原定方室)
特記
事項
四条流庖丁式始祖
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藤原 山蔭(ふじわら の やまかげ)は、平安時代前期の公卿越前守藤原高房の三男。

経歴

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仁寿4年(854年)の左馬大允を振り出しに衛門少尉を務めた後、天安2年(858年)3月に皇太子・惟仁親王の春宮大進に任ぜられ、同年11月の惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い従五位下に叙せられる。

清和朝では天皇の側近として蔵人近衛少将を務める傍ら、備後権介伊予介美濃守と地方官を兼ねる。貞観6年(864年)従五位上に叙せられてから10年近く昇進の機会がなかったが、貞観14年(872年)の太政大臣藤原良房の没後に俄に昇進し、貞観15年(873年正五位下、貞観17年(875年従四位下蔵人頭右近衛権中将に叙任される。

貞観18年(876年)12月に陽成天皇が即位すると、清和上皇に仕えるために近衛中将の辞任を重ねて奏上し、翌貞観19年(877年)正月に一旦中将の辞任を許される[1]。しかし早くも翌月には右大弁に任ぜられたため山蔭は再度辞任を上奏するが、陽成天皇の強い慰留を受けて、太上天皇宮別当を兼帯しながら右大弁を務めることになった[2]。元慶3年(879年)正月に従四位上に叙せられるが、同年5月の清和上皇の出家に前後して山蔭はまたも致仕の上奏を重ねて行うも許されず[3]、逆に10月には参議に叙任され公卿に列した。元慶4年(880年)清和上皇が崩御するが、山蔭は出仕を続けて元慶5年(881年)左大弁、元慶6年(882年正四位下に叙任されている。

光孝朝の仁和2年(886年従三位中納言に至る。仁和4年(888年)2月4日に薨去享年65。最終官位は中納言従三位兼行民部卿

人物

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四条流庖丁式の創始者と長く認識されてきたが、山蔭自身が庖丁式を執り行った事績・記録は無い。庖丁式の初見については、白河天皇1136年に藤原家成が御前で鯉庖丁をして見せたことが記録(古今著聞集)されている。

また十九奉幣社のひとつ吉田神社[4]総持寺西国三十三所二十二番札所)[5]、さらに新長谷寺真如堂内)(洛陽三十三所観音霊場五番札所)を建立・創建している。 吉田神社の末社である山蔭神社に庖丁の神、料理・飲食の祖神として祀られている[6]

説話

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以前山蔭が助けた亀に、幼児の息子(僧の如無)が救われたとるす説話が『今昔物語集』に収録されている[7]

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』貞観18年12月8日,元慶元年正月5日条
  2. ^ 『日本三代実録』元慶元年閏2月3日,13日,15日条
  3. ^ 『日本三代実録』元慶3年5月5日,18日,29日条
  4. ^ 大鏡』藤原氏の物語,「藤原氏の氏神の由来、そして大原野・吉田神社の創始」
  5. ^ 「総持寺鐘銘」(『朝野群載』所収)
  6. ^ 吉田神社略記
  7. ^ 『今昔物語集』本朝仏法部,巻19,第29話,亀報山陰中納言恩語
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『公卿補任』

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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