弘津千代
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)[1]は、日本の劇作家、小説家。
概要
[編集]山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業[2]。 在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。 本名はチヨ。
1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作[3]、翌1922年6月、新光社より出版される。
代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。同作は、同年9月には「吉田御殿」と改題して、小山内薫の演出によって帝国劇場で上演された[4]。出演は守田勘弥、森律子、河村菊江など[5]。日本戯曲全集36現代篇第四輯に所収された。 この作品について演劇評論家の戸板康二は、著書「演芸画報・人物誌」(青蛙房刊)のなかで、「好色な女性の乱行という伝説に、新解釈を下したこの作品は、女形よりも、初演の森律子、河村菊江によって演じられるのに、ふさわしかったかも知れない」[3]と評している。
第二次大戦中は伊保庄上八の生家に疎開し、戦後は近辺の新制中学校の教師として数年間教壇に立ち、和服の先生として有名であったが、その後再び上京し、日本ユネスコ委員会の委嘱で「籤」ほか1篇の戯曲を発表した。1968年に京都に移り、余生を送っていたが、1983年夏死去[6]。 生涯に約30編の戯曲と10数編の小説のほか評論随筆などを執筆した。 1997年、出生地の郷土史家らによって生家跡に石碑が建てられた[7]。
著作
[編集]戯曲
- 華子城物語 新光社1922 山原鶴、宮田範と共作
- 天樹院 舞台批評1925.7(後に「吉田御殿」と改題)
- 大姫 演劇研究1926.2
- 女敵異聞 演劇研究1926.11
- 清盛と常盤 舞台批評1927.1
- 加賀の千代 演劇研究1927/6
- 忠信の恋人 演劇研究1927.11
- 後の高尾 婦人と生活1928.1
- 絵島流鏑秘話 演劇研究1928.1
- 好色一代女 演劇研究1929.1
- 加賀の千代(改訂) 女人芸術1929.7
- 野村望東尼 演劇研究1929.8
- 利休の死 舞台戯曲1929.12
- 旧都の月 教育女子文芸1930.2
- 昼夜用人記 婦人と生活1931.1
- 萬治高尾 新興戯曲1931.2
(1957年「早苗鳥伊達聞書(ほととぎすだてのききがき)」と改題され、京都南座で上演された)
- 当世荷花嫁風景 演劇研究1931.5
(1933.4「当世花嫁風景」と改題され、歌舞伎座に於いて日本俳優学校試演会で初演された)
- 心中月夜 演劇研究1933.4
- 薄塚 婦人と生活1933.10
- 妖鱗草紙 新演劇1934.8
(1934.9 日本俳優学校劇団が帝国ホテル演芸場で初演。1935.1 宝塚中劇場で再演。1956.8 「蛇性の婬」と改題して新橋演舞場で上演された)
- 酒乱 週刊婦人新聞1935.5
小説
- 半兵衛の仕合せ 小学校女教員1926.12
- ガーネットの指輪 栄光の婦人1929.3
- 里也の仇討 令女界1929.9
- 藤花の散る夜 令女界1931.3
- 瑠璃さま 令女界1931.7
- 薄葉の菊 令女界1931.8
- 秋の拒絶 日本新論1931.11
現代語訳
- 落窪物語 日本週報社版 縮刷日本文学全集第一巻1960.8
脚注
[編集]- ^ 村上省吾 (2014年8月8日). “「やまぐちの文学者たち」80人/弘津千代”. 山口県. 2018年8月20日閲覧。
- ^ 日本戯曲全集36現代篇第四集(春陽堂)
- ^ a b 戸板康二「演芸画報・人物誌」(青蛙房刊)
- ^ https://meiji150.net/people/people/664/
- ^ 日本戯曲全集36現代篇第四輯(春陽堂)
- ^ 柳井市史総論編
- ^ 柳井日日新聞1997年4月5日付