徐東辰
徐 東辰(ソ・ドンジン、朝鮮語: 서동진、1900年1月16日[1] - 1970年1月15日[2])は、日本統治時代の朝鮮の水彩画家、韓国の政治家。第3・5代韓国国会議員。本貫は達城徐氏、画家の徐東均は親戚にあたる[3]。号は小虚(소허)[4]。
経歴
[編集]大邱で新教育運動家の母親の下で生まれた[5]。1918年に啓聖学校に入学後は美術教師の李相定(李相和の兄)の下で洋画を勉強したが、1919年の三・一運動により中退した[6]。その後、高羲東が勤務する京城の徽文高等普通学校に入学した。1924年に卒業後、大邱の啓聖学校で美術教師を半年間務め、1925年〜26年に日本の内地へ美術留学をした[5][6]。帰国後は嶠南学校(大倫高等学校の前身)で教師を務めながら、大邱の洋画運動を主導したため[4]、「大邱の近代美術の代父」と呼ばれた[5]。大邱の洋画運動は朝鮮で京城と平壌に次ぐ3番目の洋画運動であるが、ソウルと平壌では油絵が中心であるのに対し、大邱では水彩画が中心であった[6]。1927年に寿洞で印刷所、美術研究施設の大邱美術社を設立したほか[6]、同年6月に大邱の朝陽会館で東亜日報大邱支局主催の初の個展を開き、風景画や人物の水彩画など45点を出品した[5]。1928年7月にも個展を開き、28年〜32年の朝鮮美術展覧会に水彩風景画を4点出品した[5]。同時期に李仁星、金龍祚などの新人画家を励まし[4]、1928年に洋画、童謡、詩歌などの芸術家と学徒からなる文芸団体「零科会」[7]に参加し、1930年に純粋芸術を求める画家からなる「郷土会」[8]を創立した[5]。「郷土会」は政局により、1935年の画展をもって活動を中断した[6]。
光復後の1950年に大邱画友会の創立に参加したが、その後は画壇を離れ、政界に転身した[4]。同年の第2代総選挙で落選した後、1954年の第3代総選挙と1960年の第5代総選挙で当選し、国会議員を2期務めた[5]。ほかに慶北青年会会長、慶北援護会・慶北厚生会会長、大邱金融組合監事、嶺南日報社取締役、全国文化団体総連合会慶北道委員長、民主国民党慶北道党最高委員、民主党大邱市甲区党委員長、慶北体育会理事を歴任した[1]。1961年の5・16軍事クーデター以降は政界から引退し、水彩画ではなく韓国画を描いて晩年を過ごした[6]。1970年1月15日に大邱の自宅で死去。70歳没[2]。
作品
[編集]「自画像」(자화상、1924年)、「午後の風景」(오후의 풍경、1931年)、「裏路地」(뒷골목、1932年)などがある[5][6]。路地の風景や都市の近代化を表現する風景画と自画像、友人の人物画が多い[9]。
脚注
[編集]- ^ a b “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年1月22日閲覧。
- ^ a b “前民議員徐東辰(전민의원서동진)씨” (朝鮮語). NAVER Newslibrary. 조선일보 (1970年1月17日). 2023年1月22日閲覧。
- ^ 이인숙 (2015). “죽농(竹儂) 서동균(徐東均, 1903-1978) 산수화 연구” (朝鮮語). 대구경북연구 14 (1): 13-31.
- ^ a b c d “서동진(徐東辰)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年1月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 박진관 (2021年12月6日). “인물로 보는 대구문화 아카이브 (24) 서동진 서양화 재료와 서양 화풍 보급·전파한 대구 근대미술의 대부” (朝鮮語). 영남일보. 2023年1月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g 손영옥 (2022年2月13日). “대구가 낳은 화가 서동진 자화상… 이건희는 고향을 보았을까” (朝鮮語). 국민일보. 2023年1月22日閲覧。
- ^ “영과회(零科會)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年1月22日閲覧。
- ^ “향토회(鄕土會)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年1月22日閲覧。
- ^ “『李健煕コレクション特別展《ウェルカム・ホーム∼饗宴∼》』 | DAEGU ART MUSEUM”. artmuseum.daegu.go.kr. 大邱美術館. 2023年1月22日閲覧。