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徐致靖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徐 致靖(じょ ちせい、Xu Zhijing1844年 - 1918年)は、末の変法派の官僚。字は子静、号は僅叟

江蘇省宜興県出身。1867年進士となる。1898年には礼部右侍郎・翰林侍読学士となる。6月8日康有為に代わって『請明定国是疏』を提出し、光緒帝に旧法を改めて新政を実施するように求めた。上書の3日後に光緒帝は『定国是詔』を出して、戊戌の変法が開始された。変法開始後、徐致靖は康有為・譚嗣同張元済黄遵憲梁啓超らを推薦した。変法期間中、多くの上書を提出し、八股文の廃止、書局の開設、冗官の廃止、袁世凱に軍事を担当させることを提言した。しかし戊戌の政変で捕えられ、家人は死罪を覚悟して棺桶を用意していたが、李鴻章のとりなしで栄禄は死を一等減じて永久禁固とした。義和団の乱の混乱で牢番が逃げたので家に戻り、西太后北京に戻った後に正式に赦免された。その後、杭州に隠棲した。戊戌六君子の七人目と称される。

著書

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  • 『上虞県志』
  • 『奏議』
  • 『僅叟詩文』
  • 『論語解』(未完)