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御陵衛士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京都 御陵衛士屯所跡

御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇(後月輪東山陵)を守るための組織高台寺党とも(高台寺塔頭の月真院を屯所としたため)。

経過

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慶応3年3月10日1867年4月14日)に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えた。

一和同心(日本国が心をひとつにして和する)・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公儀による朝廷(公卿)中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。

同志は弟の三木三郎篠原泰之進藤堂平助服部武雄毛内有之助富山弥兵衛阿部十郎内海次郎加納鷲雄中西昇橋本皆助清原清新井忠雄江田小太郎佐原太郎斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)。

他にも、茨木司佐野七五三之助富川十郎中村五郎ら10名も後に合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の4人が死亡(死因は諸説あり)、残りの6人が放逐という結末となった。これは御陵衛士と新選組との間に隊士の行き来を禁止する約束があり、そのことを知らずに新選組を脱走して御陵衛士に加わろうとした彼らは行き場所を失った形となった(新選組を脱走したものは法度により屯所に連れ戻して切腹ということになっていた)。これとは別に、茨木たちの切腹後に隊で居場所を失い脱走をした武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された(そもそも茨木たちの脱走を勧めたのは観柳斎といわれている)。

6月、山陵奉行・戸田忠至に属し、長円寺から東山の高台寺塔頭・月真院に移り「禁裏御陵衛士」の標札を掲げた。一般的に薩摩藩に近づいたとされるが、異説もある(後述)。

新選組とは佐幕勤王倒幕で袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつもを抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。

11月18日12月13日)、油小路事件で伊東・藤堂・服部・毛内が死亡。残った同士は薩摩藩邸に逃げた。これにより解散。その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加した。

御陵衛士及び関連人物

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氏名 肖像 生年 生地 没年 没地 備考
あべ じゅうろう阿部十郎
実名 隆明
別名 高野十郎・信次郎
1837年9月21日
天保8年8月22日
出羽国 1907年1月6日
明治40年)
東京府
あらい ただお新井忠雄
実名 一業
別名 俊蔵・陸之助・荒井只雄
1835年3月5日
天保6年2月7日
陸奥国 1891年2月15日
明治24年)
東京府
いとう かしたろう伊東甲子太郎
実名 武明
別名 大蔵・摂津・誠斎・宇田兵衛
1835年
天保6年)
常陸国 1867年12月13日
慶応3年11月18日
油小路事件において横死。
うつみ じろう内海次郎
実名 正忠・忠利
別名 民弥・二郎
1836年
天保7年)
武蔵国 不明 不明 1871年明治4年)以降の消息不明。
えだ こたろう江田小太郎
実名 新光
別名 江畑三郎
不明 河内国 不明 不明 戊辰戦争以降の消息不明。
かのう わしお加納鷲雄
実名 通広
別名 道之助・鷲尾・鵰雄・伊豆太郎
1839年12月14日
天保10年11月9日
伊豆国 1902年10月27日
明治35年)
東京府
きよはら きよし清原清
実名 重春
別名 西村弥左衛門・武川直枝・竹川直枝・竹村玉枝
1832年
天保3年)
肥後国 1868年6月15日
明治元年閏4月25日
陸奥国 白河口の戦いにおいて戦死。
さはら たろう佐原太郎
実名 利秀
別名 篠崎慎八郎
1845年
弘化2年)
常陸国 1868年10月16日
明治元年9月1日
京下寺町において横死。阿部によれば中西昇の犯行だが、篠原によれば時期も犯人も異なる。
しのはら たいのしん篠原泰之進
実名 林親
別名 泰助・秦河内・篠塚友平
1828年12月22日
文政11年11月16日
筑後国 1911年6月13日
明治44年)
東京府
とうどう へいすけ藤堂平助
実名 宜虎・宜寅
別名 南部与七郎
1844年
弘化元年)
武蔵国 1867年12月13日
慶応3年11月18日
油小路事件において戦死。
とみやま やへえ富山弥兵衛
実名 豊国・忠全
別名 四郎・四郎太
1843年
天保14年)
薩摩国 1868年5月23日
明治元年閏4月2日
越後国 越後国吉水村において戦死。
はしもと かいすけ橋本皆助
実名 利長
別名 会助・藤井勇七郎・水野八郎
1835年
天保6年)
大和国 1871年6月3日
明治4年4月16日
京? 慶応3年8月、陸援隊に入隊。
はっとり さぶろべえ服部三郎兵衛
実名 良章
別名 武雄・三宅安兵衛
1833年1月12日
天保3年12月22日
播磨国 1867年12月13日
慶応3年11月18日
油小路事件において戦死。
みき さぶろう三木三郎
実名 忠良
別名 寺内多聞・荒次郎・和泉・三樹三郎・鈴木三樹三郎
1837年8月12日
天保8年7月12日
常陸国 1919年7月11日
大正8年)
茨城県
もうない けんもつ毛内監物
実名 茂胤・良胤
別名 平二・有之助
1835年3月26日
天保6年2月28日
陸奥国 1867年12月13日
慶応3年11月18日
油小路事件において戦死。
いばらき つかさ茨木司
実名 昌業・義忠
別名
不明 陸奥国 1867年7月14日
慶応3年6月13日
会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
さの しめのすけ佐野七五三之助
実名 忠正・重之
別名 寺西内蔵之丞
1834年
天保5年)
尾張国 1867年7月14日
慶応3年6月13日
会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
とみかわ じゅうろう富川十郎
実名 良利・政之
別名
1844年
天保15年)
甲斐国
または
常陸国
1867年7月14日
慶応3年6月13日
会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
なかむら ごろう中村五郎
実名 義明・政常
別名
1849年
嘉永2年)
下野国 1867年7月14日
慶応3年6月13日
会津藩邸において横死。殺害説と自刃説あり。
さいとう はじめ斎藤一
実名
別名 山口一・山口次郎・山口二郎・一瀬伝八・藤田五郎
1844年2月18日
天保15年1月1日
武蔵国
または
播磨国
1915年9月28日
大正4年)
東京府 慶応3年11月脱走。新選組からのスパイであったとされる。
なかにし のぼる中西昇
実名
別名
1842年
天保13年)
武蔵国
または
上野国
不明 不明 阿部によれば同志ではなく、佐原太郎を殺害した。真偽いずれにせよ消息不明。

参考文献

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  • 市居浩一『新選組・高台寺党』新人物往来社、2004年。ISBN 4404031653 

関連項目

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