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志田重男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1955年

志田 重男(しだ しげお、1911年<明治44年>11月21日 - 1971年<昭和46年>7月3日[1])は、日本の労働運動家、社会主義活動家。日本共産党幹部を務めたが、除名された。

経歴・人物

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兵庫県津名郡浅野村(現・淡路市)生まれ。小学校を卒業後、1923年堺市で旋盤工となり、労働運動に入る。1932年日本労働組合全国協議会(全協)中央常任委員。1931年、日本共産党に入党し、1933年検挙、投獄される[1][2][3]

第二次世界大戦後、政治犯釈放で出獄。党本部に入り、中央委員・政治局員・書記局員となり、1947年4月の第23回衆議院議員総選挙大阪5区から、第1回大阪府知事選挙に共産党公認で立候補したがいずれも落選した。1950年公職追放を受け、徳田球一らと地下に潜行。この時期、内部分裂した党の主流をなした所感派の代表的幹部であり、非合法活動の責任者「軍事委員長」となって、極左冒険主義闘争を指導[1][2]

1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(六全協)直後、8月11日日本青年館で開かれた「六全協記念政策発表大演説会」の席上、野坂参三紺野与次郎とともに、5年ぶりに地上に姿を現して[4]逮捕されるが同年8月16日に釈放[5]。 その後は芸者遊びによる党の資金浪費を追及されて[2][6]1956年に失踪し、1957年除名された。その後は変名の金井貞吉として、大阪や埼玉を転々とした後、1963年以降は東京荒川区に居住しビル清掃会社に勤めていた[7]。その一方で「マルクス・レーニン主義研究会」「日本共産党(解放戦線)全国指導部」を本拠として日本共産党指導部に反対し続けた。

1971年に胃癌のため、郷里兵庫県の病院にて変名である金井として死去した[7]。なおその死は志田個人の意思によって秘匿され、死後2年経った1973年になって警察当局の調査により判明した[7]

のち、『志田重男遺稿集』(志田重男遺稿集出版編集委員会、第1集1975年、第2集1976年)が出版された[8]

参考文献

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『市民・社会運動人物人名事典』(日外アソシエーツ編集・発行、1990年)

脚注

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  1. ^ a b c 志田重男」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%BF%97%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%94%B7コトバンクより2022年2月13日閲覧 
  2. ^ a b c 志田 重男」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E5%BF%97%E7%94%B0%20%E9%87%8D%E7%94%B7コトバンクより2023年3月31日閲覧 
  3. ^ 大阪毎日新聞 (1933年11月20日). “赤い温床を徹底掃蕩”. 新聞記事文庫. 神戸大学経済経営研究所. 2022年2月13日閲覧。
  4. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』データベース
  5. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、70頁。ISBN 9784309225043 
  6. ^ 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』新潮社、2008年、262-263頁。ISBN 978-4-10-136291-5OCLC 269438831 
  7. ^ a b c 『毎日新聞』「死んでいた志田重男氏-地下潜行組の元日共幹部」1973年3月4日東京朝刊19頁
  8. ^ 国立国会図書館サーチ

関連項目

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