恒性皇子
恒性皇子 | |
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続柄 | 伝・後醍醐天皇皇子 |
全名 | 恒性(こうしょう/つねなり) |
称号 | 大覚寺宮、越中宮 |
出生 |
嘉元3年(1305年) |
死去 |
元弘3年/正慶2年5月10日(1333年6月22日)(享年29) |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 源親子(養・憙子内親王) |
役職 | 大覚寺門跡 |
恒性皇子(こうしょう(つねなり)おうじ、嘉元3年(1305年)- 元弘3年/正慶2年5月10日(1333年6月22日))は、鎌倉時代の皇族。『大覚寺門跡次第』『続史愚抄』が、後醍醐天皇の皇子であると伝える人物。母親は源親子、義母は大叔母でもある憙子内親王(昭慶門院)とされる。別名は大覚寺宮、越中宮[1]。
経歴
[編集]大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱で隠岐に配流された後醍醐天皇に連座し、元弘2年/正慶元年(1332年)に還俗させられた上で越中国射水郡二塚(現・富山県高岡市二塚)にある現在の気多社(悪皇子宮)に流されて幽閉された。
その翌年、後醍醐天皇が隠岐から脱出、足利高氏も幕府にそむき六波羅探題を攻撃した。この情勢を知った越中守護・名越時有は恒性皇子を殺害し、越中・能登の御家人を二塚に集めた。しかし、六波羅探題陥落や反幕府勢力蜂起の情勢を知った御家人たち一万余騎は守護に反乱し、名越氏もこの約1週間後に放生津城(現富山県射水市)で滅亡した[2]。なお、殺害された日については、「大覚寺門跡略記」(塙保己一編『続群書類従』第4輯下)では3月10日、「南方紀伝」(近藤瓶城編『史籍集覧』第3冊)では5月10日としている。また「大覚寺門跡略記」では殺害の実行犯は名越兵庫助貞時としている。
墓所
[編集]太子墓と呼ばれていた高岡市二塚にある皇子の墓は、明治45年(1912年)の皇太子(後の大正天皇)の北陸巡啓の際に宮内省による調査が行われ、富山県で唯一の宮内庁治定陵墓に定められた[3]。毎年6月30日(旧暦5月10日)には墓前で皇子をしのぶ「正辰祭」も営まれている[4]。
また墓陵の近くには皇子ゆかりの品を伝えている浄誓寺がある。境内入口には恒性皇子とともに殺害された勧修寺家重・近衛宗康・日野直通を祀る「恒性皇子扈従三朝臣慰霊碑」がある。
脚注
[編集]- ^ 「大覚寺門跡次第」(近藤瓶城編『史籍集覧』第12冊)
- ^ 富山県公文書館『とやまの歴史』富山県、1998年、p44-45頁。
- ^ 高岡市福岡町赤丸にある親王塚(元正天皇の二宮、または後醍醐天皇の四宮・宗良親王の御墓との伝承がある)や南砺市安居にある御陵山(南砺市指定文化財。南朝第3代長慶天皇の御陵との伝承がある)は、昭和初期、宮内省が設置した「臨時陵墓調査委員会」による現地調査の対象となったものの、いずれも治定には至らなかった。また朝日町にある北陸宮の御墳墓は昭和45年(1970年)に朝日町が築造した模擬墳墓。
- ^ “「悲劇の皇子」しのぶ 高岡で恒性皇子慰霊祭”. 北日本新聞. (2020年7月1日) 2020年7月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 青木文助『闡幽録』射水郡二塚村役場、1913年。