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恭雲院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

恭雲院(きょううんいん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。甲斐武田氏の家臣・真田幸綱(幸隆)の正室

生涯

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海野棟綱真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱真田昌輝真田昌幸真田信尹金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である[1]。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される[2]

系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている[2]

天正10年(1582年)3月に織田信長武田征伐による甲斐武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡佐久郡を支配していた織田信長の家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡筑摩郡木曽郡を与えられた木曾義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる[3]

没年には二説ある。真田氏の菩提寺である長野県上田市長谷寺墓碑には天正20年5月20日1592年6月29日)とあり、同寺の過去帳には文禄2年8月1日1593年8月27日)とあり、1年余の差があるがこの頃に没したものと思われる[2]。戒名は恭雲院喜山理慶大姉[2]

登場する作品

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脚注

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  1. ^ a b 丸島和洋 2016, p. 220.
  2. ^ a b c d 柴辻俊六 1996, p. 20.
  3. ^ 丸島和洋 2016, pp. 220–222.

参考文献

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書籍
  • 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 978-4-64-205202-3 
  • 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年。ISBN 978-4-04-601099-5