悼公 (許)
悼公 姜買 | |
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許 | |
17代男 | |
王朝 | 許 |
在位期間 | 紀元前546年 - 紀元前523年 |
姓・諱 | 姜買 |
諡号 | 悼 |
生年 | 不明 |
没年 | 紀元前523年 |
父 | 霊公 |
子 | 許男斯 |
許 悼公(きょ とうこう、? - 紀元前523年)は、春秋時代の諸侯国の許の君主の一人[1]。姓は姜、名は買。在位期間は紀元前546年から紀元前523年とされている。
生涯
[編集]元年(紀元前546年)夏、魯の叔孫豹は晋の趙武・楚の屈建・蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄・許人・曹人らと宋で会合した。
二年(紀元前545年)、宋での盟を反故にし、魯の襄公・宋の平公・陳の哀公・鄭の簡公・許の悼公が楚に赴いた。
三年(紀元前544年)夏四月、楚の康王を葬った。許の悼公及び、魯の襄公・陳の哀公・鄭の簡公が送葬し、西門外まで見送った。諸侯の大夫は皆、墓まで見送った。郟敖が即位して王子囲が令尹となった。
四年(紀元前543年)、鄭の良霄が許に出奔したが、鄭人によって良霄は殺された。
九年春正月(紀元前539年12月),悼公如楚,楚霊王止之;遂止鄭簡公,復田江南,悼公与焉。夏,悼公・楚霊王・蔡霊侯・陳哀公・鄭簡公・徐公・滕成公・頓公・胡公・沈子・邾荘公・小邾穆公・宋世子佐・淮夷会於申。秋,七月,悼公・楚霊王・蔡霊侯・陳哀公・胡公・頓公・沈子・淮夷伐呉,宋世子佐・鄭簡公先帰,宋華費遂・鄭大夫従。使屈申囲朱方。八月甲申,克之,執斉慶封而尽滅其族。将戮慶封,椒挙曰:“臣聞無瑕者可以戮人。慶封惟逆命,是以在此,其肯従於戮乎?播於諸侯,焉用之?”王弗聴,負之斧鉞,以徇於諸侯,使言曰:“無或如斉慶封弑其君,弱其孤,以盟其大夫!”慶封曰:“無或如楚共王之庶子囲(霊王)弑其君兄之子員(郟敖)而代之,以盟諸侯!”王使速殺之。遂以諸侯滅頼。頼子面縛銜璧,士袒,輿櫬従之,造於中軍。王問諸椒挙,対曰:“成王克許,許僖公如是。王親釋其縛,受其璧,焚其櫬。”王従之。遷頼於鄢。楚霊王欲遷許於頼,使鬬韋亀与公子弃疾城之而還。
十年(紀元前537年)冬、許の悼公・楚の霊王・蔡の霊侯・陳の哀公・頓公・沈子・徐人・越人が呉を討伐した。
十四年(紀元前533年)春二月庚申(1月28日)、楚の公子弃疾(後の平王)が許を葉から夷(後の城父邑)に遷都させた。
楚の霊王は蔡を滅ぼした時に、許・胡・沈・道・房・申を荊に遷していた。十八年(紀元前529年)秋、楚の平王は元に戻した。
二十三年(紀元前524年)、楚は許を析(後の白羽邑)に遷した。
二十四年(紀元前523年)夏、悼公は病に罹った。五月戊辰(4月8日)、世子止が薬を薦め、その薬によって亡くなった。世子止は晋に奔した。そのため、「弑其君(その君を殺した)」とある。君子の評は「尽心力以事君、捨薬物可也」とある。冬、悼公を葬った。
家庭
[編集]父
[編集]子
[編集]脚注
[編集]- ^ 金栄権著 (2012.07). 周代淮河上游諸侯国研究. 鄭州:河南大学出版社. pp. 107. ISBN 978-7-5649-0686-3
参考文献
[編集]- 楊伯峻《春秋左傳注》,2005年,北京,中華書局
悼公
許の君主
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先代 霊公 |
許の君主 紀元前546年 - 紀元前523年 |
次代 許男斯 |