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慶長大判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慶長大判。後藤顕乗墨書[1]
慶長大判。レプリカ。

慶長大判(けいちょうおおばん)とは、江戸時代の初期すなわち慶長6年(1601年)より鋳造[注 1]された大判であり、墨書、金品位および発行時期などにより数種類に細分類される。この発行年については慶長の幣制の成立と同時期とされるが詳細については不明であり、定かでない。

慶長大判、慶長小判および慶長一分判慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼び、徳川家康による天下統一を象徴する貨幣として位置付けられる。

概要

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表面は「拾両後藤(花押)」と墨書され、後藤四郎兵衛家五代徳乗、その実弟長乗、七代顕乗、九代程乗の書であり、長乗によるものは花押がの葉を髣髴させ笹書大判(ささがきおおばん)と呼ばれる。表面は上下左右に丸枠桐紋極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれ、裏面中央に丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印が打たれ、形状は角ばった楕円形である。表面は天正大判と異なり鏨目(たがねめ)に変化している。慶長大判の総鋳造量は16,565枚という記録[2]もあるが明暦判でも15,080枚であることから、この記録がどこまでの範囲を示すものかは不明である[3]

大判は一般流通を前提とした通貨ではなく、恩賞および贈答用のものであり、市場に流れた場合は両替商において含有金量および需要に基づいて価格が決められ、慶長小判、一分判に対し含有金量に基づけば大凡、七二分であるが初期の慶長年間は道具値段として八二分が相場であった[4]。また墨書が消えた場合、大判座へ持ち込み、銀三五分、文政2年(1819年)以降は金一分の手数料で書改めを受けた[4]

小判および分金が生粋金(純)および花降銀(純)の合金は不純物程度でしか含まれないのに対し、大判では3%程度の銅が意図的に加えられ、黄金色を演出させ審美性を持たせているとされる[4]

量目は金一枚(京目拾両)すなわち四十四匁を基準としているが、実際には吹き減りおよび磨耗などを考慮し二分の入り目が加えられ[5]、四十四匁二分が規定量目である。通用期間は元禄大判通用開始の元禄8年(1695年)までであった。

慶長大判

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大判座は当初、京都室町通の北端に設けられ、寛永2年(1625年)以降は江戸にも大判座が開設され、慶長年間から明暦年間までの鋳造のものには以下のものがあり、それぞれ多少の金品位の違いがあるといわれる[3][6]

  • 拾両判(じゅうりょうばん):
  • 二条判(にじょうばん):
  • 一ツ極印(ひとつごくいん):裏面に「田」、「ま」、「金」、「さ」、「孫」の極印のいずれかが一つ打たれている。
  • サマ判(さまばん):裏面に「サ・マ」と二文字の極印が打たれている。
  • 次判(なみばん):裏面に「ゑ・九」、「さ・新」、「長・新」の極印のいずれかが打たれている。

明暦大判

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明暦3年(1657年)の明暦の大火による被害は江戸城天守および御金蔵まで及び、鎔け流れたを明暦4年(1658年)より万治3年(1660年)に掛けて江戸城三の丸で吹き直し鋳造された大判が明暦大判(めいれきおおばん)と呼ばれるが、慶長大判の一種として扱われる。形状はやや撫肩のものとなり、鏨目は粗くなり、やや右肩上がりの方向に打たれたものが多い。その後、京都の大判座でも大判が鋳造された[7]。墨書きはいずれも九代程乗のものである[3]。現存数は慶長大判の中ではこの明暦判は少ない。

  • 明暦判(めいれきばん)もしくは江戸判(えどばん):裏面に「久・七・新」または「九・七・竹」の極印が打たれている。
  • 三ツ極印(みつごくいん):京都の大判座で明暦年間以降に鋳造。裏面に「弥・七・九」、「次・七・九」、「坂・七・九」、「弥・七・新」のいずれかの極印が打たれている。
  • 四ツ極印(よつごくいん):京都の大判座で明暦年間以降に鋳造。裏面に「次・七・源・九」、「坂・七・源・九」、「弥・七・源・九」のいずれかの極印が打たれている。

種類

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名称 鋳造開始 規定品位
分析品位(造幣局)[8]
規定量目 鋳造量
拾両判
(天正大判?)
慶長6年頃
1601年
-
-
44.2[9][注 2]
(164.9グラム)[注 3]
-
二条判
(天正大判?)
慶長6年頃
(1601年)
五十九匁八分位(73.6%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
-
一ツ極印 慶長6年以降
(1601年~)
六十二匁位(71.0%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
16,565枚[10]
サマ判 慶長6年以降
(1601年~)
六十二匁位(71.0%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
-
次判 慶長6年以降
(1601年~)
六十二匁位(71.0%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
-
明暦判(江戸判) 明暦4年
1658年
六十五匁位三分二厘位(67.4%)
金67.26%/銀28.07%/雑4.67%
44.2匁
(164.9グラム)
15,080枚
三ツ極印 明暦4年以降
六十二匁位(71.0%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
-
四ツ極印 明暦4年以降
六十二匁位(71.0%)
-
44.2匁
(164.9グラム)
-

脚注

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注釈

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  1. ^ 大判の製作は、鋳造した金塊を延金として打ち延す工程を踏むことから鋳造と呼ぶには相応しくないが、広義には貨幣の製造を通して鋳造ともいう。
  2. ^ 四十四匁一分としている『貨幣秘録』は江戸時代後期の天保14年(1843年)に佐藤治左衛門によって著されたものとされ、江戸時代初期とは1匁の量目が若干異なる。
  3. ^ 江戸時代初期の1匁は約3.73グラムと推定されている(日本貨幣カタログ 2008年版, 大判の解説, p65.)。

出典

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  1. ^ 泰星オークション、(泰星オークション2017 出品No.1、第45回泰星誌上オークション 出品No.3.)
  2. ^ 佐藤治左衛門 『貨幣秘録』 1843年
  3. ^ a b c 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年
  4. ^ a b c 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
  5. ^ 日本銀行調査局土屋喬雄編 『図録 日本の貨幣・第2巻』「近世幣制の成立」 東洋経済新報社、1973年
  6. ^ 小葉田(1958), p120-121.
  7. ^ 小葉田(1958), p159-160.
  8. ^ 甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年
  9. ^ 『貨幣秘録』には四十四匁一分とある。久光(1976), p86.
  10. ^ 『貨幣秘録』による。久光(1976), p86.

参考文献

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  • 青山礼志『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』ボナンザ、1982年。 
  • 郡司勇夫・渡部敦『図説 日本の古銭』日本文芸社、1972年。 
  • 久光重平『日本貨幣物語』(初版)毎日新聞社、1976年。ASIN B000J9VAPQ 
  • 石原幸一郎『日本貨幣収集事典』原点社、2003年。 
  • 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年。 
  • 草間直方『三貨図彙』1815年。 
  • 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年。ISBN 978-4-492-37082-7 
  • 滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』吉川弘文館、1996年。ISBN 978-4-642-06652-5 
  • 瀧澤武雄,西脇康『日本史小百科「貨幣」』東京堂出版、1999年。ISBN 978-4-490-20353-0 
  • 田谷博吉『近世銀座の研究』吉川弘文館、1963年。ISBN 978-4-6420-3029-8 
  • 矢部倉吉『古銭と紙幣 収集と鑑賞』金園社、2004年10月。ISBN 978-4-321-24607-1 
  • 日本貨幣商協同組合 編『日本の貨幣-収集の手引き-』日本貨幣商協同組合、1998年。 
  • 大蔵省造幣局 編『造幣局百年史(資料編)』大蔵省造幣局、1971年。 

外部リンク

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慶長大判画像