我々は知らない、知ることはないだろう
「我々は知らない、知ることはないだろう」(われわれはしらない、しることはないだろう、ラテン語: Ignoramus et ignorabimus[注釈 1], イグノラムス・イグノラビムス)は、人間の認識の限界を主張したラテン語の標語。
19世紀末、ベルリン大学教授の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンによって、「ある種の科学上の問題について、人間はその答えを永遠に知りえないだろう」という意味で使用された。レーモンの主張は、当時のドイツ語圏において「イグノラビムス論争」と呼ばれる議論を引き起こした。
語源
[編集]「イグノラムス (Ignoramus)」と「イグノラビムス (ignorabimus)」はそれぞれ、「知らない」という意味のラテン語「イグノロ (Ignoro)」の一人称複数現在形と一人称複数未来形である[1]。この言葉は遡ると、「知識」という意味のギリシャ語「グノシ (γνωση)」に由来がある[1]。「イグノラムス」はもともとは古英国において使用されていた法廷用語であった[2]。16世紀末の英国の法廷において、公訴が根拠のあるものか無根拠のものか、証拠が不十分で判断できなかった場合に、当時の大陪審が取ったのがイグノラムスという立場であったと言われる[3]。
概要
[編集]1880年の講演『宇宙の七つの謎』において、デュ・ボア=レーモンは科学には大きい7つの謎があるとした。それら7つの謎のうちの4つ(下記※印)は、単に現時点において謎であるだけでなく、永久に解決不可能な問題であろうとした[4]。
レーモンは解決不可能な問題について説明する場合に、いくつかの場面でフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスによって唱えられたラプラスの悪魔のアイデアを使用した。人間の考えうる認識の最高段階に達していると思える知性によっても理解できないことならば、我々人間が理解することは到底期待できないだろう、といった議論においてである。以下、デュ・ボア=レーモンがラプラスの悪魔を引き合いに出した部分の一例である。
かくてラプラスの魔の自然認識は、吾々人間自身の自然認識のおよそ考えうべき最高の段階をあらはすものであって、従って吾々は自然認識の限界にあたってこれを基礎にもってくることができるのである。ラプラスの魔にして認識できぬことは、それよりもはるかに狭小な限界の中に閉じこめられている吾々の精神には全く永久に知られずにおわるであろう。 — レーモン(1928)、p.35
1872年の講演『自然認識の限界について』において、レーモンは講演の最後で次のように述べた。
物質界の多くの謎に向かっては自然科学者は男らしき諦めを以て Igonoramus 「吾等は知らない」と自白することに既に久しく慣れている。今まで経来った勝利に充ちた途を顧み、今彼の心を支えるものは、今日知らないことも、少なくとも事情の如何によっては知りうるであろうし、恐らくいつかは知るであろうというひそやかな意識である。しかし物質と力の本性がなんであるか、またどうしてそれが思惟しうるのであるかの謎を前にしては、彼は断然一層耐えがたい判決を決心しなければならぬのである。— レーモン(1928)、p.60
- Ignorabimus 「吾等は知らないであろう。」
反応
[編集]1930年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、ケーニヒスベルクで行われた講演『自然認識と論理』において、デュ・ボア=レーモンの言葉を批判的に参照しつつ次のように述べた[5]。
我々[数学者]にイグノラビムス[不可知]はない、また私が思うに、自然科学にもイグノラビムスはない。馬鹿げたイグノラビムスに対し、我々のスローガンはこうなるだろう。「我々は知らねばならない、我々は知るであろう」(Wir müssen wissen — wir werden wissen) — ダフィット・ヒルベルト(1930年)『自然認識と論理』(引用者訳、[]内引用者による付記)
このように講演を締めくくった後で、ヒルベルトは声を上げて笑ったと伝えられている[6]。この講演を最後の部分を記録した録音が残っていて、最後の部分でヒルベルトの笑い声が確認できる[5][7]。
注釈
[編集]- ^ イグノラムス・エト・イグノラビムス。(現時点において)「無知である」という意味を持つ言葉「イグノラムス (Ignoramus)」と、(将来において)「無知だろう」という意味を持つ言葉「イグノラビムス (ignorabimus)」、この2語を日本語の「と」にあたるラテン語の接続詞「エト (et)」で結んで作られた言葉。英語だと "we do not know and we will not know" などと訳される。このラテン語の定まった日本語訳は特になく、カタカナでそのまま書かれることもある。2語セットではなく後者の Ignorabimus だけで引用されることも多い。以下、いくつか例を挙げる。
- 「吾等は知らず、知らざるべし (Ignoramus, ignorabimus)」レーモン 著、坂田 訳 (1928) p.10
- 「われわれは知らないし、知らないであろう (Ignoramus, Ignorabimus)」河田 (2003)
- 「我々は知らないであろう (Ignorabimus)」稲葉 (2012) p.132
- 「我々は知りえない (ignorabimus)」寺尾 (2010) p.10
- 「将来も知らないであらう (Ignorabimus)」ワッセルマン 著、藤田 訳 (1925)
- 「イグノラムス・イグノラビムス」中島敦(1942年)『狼疾記』青空文庫(ちなみにこれは学術上の文献ではなく小説である)
脚註
[編集]- ^ a b 河田 (2003)
- ^ レーモン(1928) p.76
- ^ ignoramus - Oxford Dictionary Online 最終閲覧日 2012年6月3日
- ^ Schnaiter David, Kofler Walter (2008) pp.59 f
- ^ a b Hilbert, David (1930) "Naturerkennen und Logik" 講演の末尾の音声(約4分、ドイツ語)、講演原稿(ドイツ語と英訳)、講演原稿(ドイツ語と日本語訳)
- ^ 吉永 (1992) p.249
- ^ リード (2010) p.381
参考文献
[編集]- 稲葉肇「<翻訳> L・ボルツマン 力学の諸原理について」『科学哲学科学史研究』第6号、京都大学文学部科学哲学科学史研究室、2012年2月、121-150頁、doi:10.14989/153490、ISSN 1883-9177、NAID 120003891650。
- 河田溥「退任教授最終講義 Ignoramus,Ignorabimus--われわれは知らないし,知らないであろう」『福岡大学医学紀要』第30巻第4号、福岡大学、2003年12月、289-298頁、ISSN 03859347、NAID 110000327248。
- ゲーデル『ゲーデル 不完全性定理』林晋・八杉満利子訳、岩波書店〈岩波文庫 青944-1〉、2006年9月15日。ISBN 4-00-339441-0 。
- Schnaiter David; Kofler Walter (2008). “The Ignorabimus-Paradigm and Its Relevance for Contemporary Science”. Herald of the International Academy of Sciences. Russian Section (Vestnik Mezhdunarodnoj akademii nauk. Russkaya sekciya (Online)) (1): 59-64. ISSN 2221-7479 .
- 寺尾寿芳「脳科学と宗教」『研究所報』第20号、南山宗教文化研究所、2010年、3-11頁。
- 吉永良正『ゲーデル・不完全性定理 "理性の限界"の発見』講談社〈ブルーバックス B947〉、1992年12月20日。ISBN 4-06-132947-2 。
- C・リード『ヒルベルト 現代数学の巨峰』彌永健一訳、岩波書店〈岩波現代文庫 学術240〉、2010年7月16日。ISBN 978-4-00-600240-4 。
- レーモン『自然認識の限界について 宇宙の七つの謎』坂田徳男訳、岩波書店〈岩波文庫 青923-1〉、1928年3月10日。ISBN 4-00-339231-0 。
- 「談叢 : 過去五十年間に於ける微生物學及び免疫學」『細菌學雜誌』第1925巻第350号、日本細菌学会、1925年、309-319頁、doi:10.14828/jsb1895.1925.309。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ヒルベルトのケーニヒスベルクでの講演 - ウェイバックマシン(2015年6月30日アーカイブ分)