持明院基定
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長12年4月10日(1607年5月5日) |
死没 | 寛文7年10月17日(1667年12月2日) |
官位 | 正二位、参議、権大納言 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇 |
氏族 | 大沢氏→持明院家 |
父母 |
父:大沢基宿、母:不詳 養父:持明院基久 |
兄弟 |
大沢基重、基定、大沢基成、大沢基近、山名豊政正室ら4男2女 養兄弟:大沢基賀 |
妻 | 正室:持明院基久の娘 |
子 | 基時、高野保春、高倉永敦室、稲葉正往継室 |
持明院 基定(じみょういん もとさだ)は、江戸時代前期の公卿。高家旗本・大沢基宿の次男。官位は正二位・参議、権大納言。『入木源底集』を著す。
経歴
[編集]持明院基久、基征父子は公家でありながら、大坂の陣に参加し大坂城に入城し、最終決戦の天王寺・岡山の戦いで戦死した(落ち延びたという説もある)。その後、基定が基久の娘婿となり名跡を継ぐことを許された。正保3年(1646年)3月10日、臨時奉幣使として後光明天皇より日光東照宮に派遣され、翌4月17日に東照宮に奉幣する。これが日光例幣使の始まりである[1]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ “旧日光市歴史年表(江戸1)”. 日光市. 2022年8月6日閲覧。