授刀舎人寮
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授刀舎人寮(たちはきのとねりりょう/じゅとうとねりりょう)は、奈良時代(8世紀)に武官の一種である授刀舎人を統轄した官司(令外官)。授刀寮[1]・帯剣寮[2]とも呼ばれている。「寮」とされているのは、類似の舎人を管轄する左右大舎人寮や左右兵衛府(大寮相当)との関係によるものとされる。
概要
[編集]授刀舎人寮は元明天皇即位直後の慶雲4年(707年)7月に設置され、当時の皇位継承者とされていた首皇子(のちの聖武天皇)の地位を擁護する目的を担っていたと推測される[3][4]。
養老4年(720年)8月の藤原不比等没後[5]、新田部親王が「知五衛及び授刀舎人事」に任命されていることや[6]、同6年(722年)2月、従三位であった藤原房前が授刀寮の長官であったこと[7]などは、授刀舎人寮が宮廷武力として重視されていたことを物語っている。房前は、王臣の位袋の停止について意見を言上しているところから[7]、授刀寮が官人の衣服など宮中の風儀の取り締まりにも関与していたことをうかがわせる。また、
- 神亀4年(727年)正月、侍従侍衛の任を怠けた官人を授刀寮に散禁したこと[8]、
- 同年9月、天皇の添上郡での山村遊猟の折に追われて百姓の家の中にはいった鹿を食ったその家の男女十人あまりが、授刀寮に監禁されたこと[9]
という事例から、授刀寮は宮廷における規律違反を犯したものを拘禁するなどの警察的任務にもあたっていたことが想像される。上述のように、藤原房前が長官である授刀頭の地位にあるなど、藤原氏との関係も密接であった。
官人には、長官・助・医師・兵衛・衛士などがあった[10]。
神亀5年(728年)7月に授刀寮を改編する形で中衛府が設置され[11]、寮に所属する授刀舎人も中衛舎人となった[12]。
脚注
[編集]- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老5年12月29日条
- ^ 『続日本紀』巻第四、元明天皇 和銅元年3月23日条
- ^ 林睦朗「皇位継承と親衛隊」『上代政治社会の研究』所収
- ^ 笹山晴生「授刀舎人補考」『日本古代衛府制度の研究』
- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老4年8月3条
- ^ 『続日本紀』巻第八、元正天皇 養老4年8月4条
- ^ a b 衣服令5条『令集解』所引2月23日格
- ^ 『万葉集』巻第六 948番、949番左注
- ^ 『日本霊異記』上巻「三宝に帰信して衆僧を欽仰し、誦経せしめて、現報を得し縁」第三十二
- ^ 角川書店『日本史辞典』より
- ^ 『続日本紀』巻第八、聖武天皇 神亀5年8月甲午条。8月に甲午の日はないが、『類聚国史』・『日本紀略』ともに同様の誤りを犯しており、続紀本来のミスと思われ、『類聚三代格』から7月21日の出来事と推察される
- ^ 笹山晴生「中衛府の研究」『日本古代衛府制度の研究』
参考文献
[編集]- 『角川第二版日本史辞典』p470、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p732、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『国史大辞典』第二巻p189、吉川弘文館、文:笹山晴生、1980年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12岩波書店、1990年
- 『続日本紀』2 新日本古典文学大系13岩波書店、1990年
- 『萬葉集』(二)完訳日本の古典3、小学館、1984年
- 『日本霊異記』完訳日本の古典8、小学館、1986年