揖斐政景
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永18年1月28日(1641年3月9日) |
別名 | 半四郎、与右衛門 |
戒名 | 如天 |
墓所 | 宝蓮寺(神奈川県秦野市) |
幕府 | 江戸幕府小田原町奉行、駿府町奉行 |
主君 | 徳川家康、秀忠 |
氏族 | 土岐氏流揖斐氏 |
父母 | 父:揖斐政雄、母:渥美刑部の娘 |
兄弟 | 政景、政吉 |
妻 | 内藤正成の娘 |
子 |
政綱、政之 松平重次室 |
揖斐 政景(いび まさかげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
生涯
[編集]父政雄は織田信雄の家臣だったが、信雄が出羽に配流された際に従って同地で客死した。政景は堀尾吉晴の元にいたが、慶長7年(1602年)かつて小牧・長久手の戦いで父と縁のあった徳川家康に召され、下総海上郡に500石を与えられて徳川秀忠付きとなった。大坂の陣では伏見城番を務め、戦後は下総香取郡・武蔵橘樹郡内に200石を加増された。元和7年(1621年)小田原の町奉行と代官を兼務し、相模大住郡に200石を加増。寛永9年(1632年)稲葉正勝に小田原が与えられるまで務めた。寛永11年(1634年)からは駿府の町奉行を務めた。
出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第291