摂津茂和
摂津 茂和 (せっつ もわ) | |
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『現代ユーモア文学全集』第4(1953年) | |
ペンネーム | 摂津 茂和 |
誕生 |
近藤高男(こんどう たかお) 1899年7月21日 東京府 |
死没 |
1988年8月26日(89歳没) 東京都文京区 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学法学部政治科 |
活動期間 | 1939年3月 - 1988年 |
代表作 | 『摂津茂和集』『偉大なるゴルフ』『古典ゴルフひと口噺』など |
主な受賞歴 |
第2回新青年賞(1926年) 第5回新潮社文芸賞(1941年) |
デビュー作 | 『のぶ子刀自の太っ腹』 |
子供 | 近藤久男(三井物産ニューヨーク本店元社長) |
所属 | ユーモア倶楽部、くろがねの会[1] |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
摂津 茂和(せっつ もわ、1899年〈明治32年〉7月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日[2][3])は、日本の小説家、ゴルフ評論家[2]、ゴルフ史家[4]。
雑誌「新青年」などでユーモア小説家として活躍した後[2]、ゴルフ史家として多くのゴルフ関連の書籍を多く著し[5]、ゴルフ関連の施設やゴルフ場の建設にも貢献した[2][6]。本名は近藤 高男(こんどう たかお)で[7][8]、「摂津茂和」はフランス語で「これが私」を意味する「C'est moi(セ・モア)」をもじった筆名である[9]。息子は三井物産ニューヨーク本店元社長の近藤久男[8][10]。
経歴
[編集]東京府出身[2]。中学時代には薄田泣菫や永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた[11]。慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ[11]。25歳のとき、父に連れられてヨーロッパを旅行し、パリやロンドンを回った[11]。
慶應を1924年(大正13年)に卒業後、貿易などの実業の傍らで[1]、友人の発行していたゴルフ雑誌に随筆を書いていた[11]。この文業は摂津曰く「素人のすさび」程度のものだったが[11]、これがゴルフ仲間である雑誌「新青年」編集長(当時)の水谷準の目に留まり、水谷の勧めで[11][12]、1939年(昭和14年)3月号に「新青年」に『のぶ子刀自の太っ腹[13]』を掲載し、40歳にして作家としてデビューした[11]。その後も、ユーモア小説作家として活躍した[2]。水谷は、当時の日本文学にはユーモアが欠けていると考えて、1933年(昭和8年)にユーモア探偵小説を提唱したことを始め、P・G・ウッドハウスやジョンストン・マッカレーを取り上げるなどして、ユーモア小説にかなりの関心を抱いていたが、日本に書ける人物がおらず、摂津に白羽の矢を立てたという[14]。また摂津自身は、当初からユーモア小説を志したわけではないが、どんな小説にも多少のユーモアと風刺を必要と考えており、そうした考えが自然に自分をユーモア小説へ進ませたと見ている[11]。
1941年(昭和16年)に陸軍報道部嘱託として、山岡荘八、久生十蘭、棟田博らと共に、中支前線に従軍[11]、1943年(昭和18年)には海軍報道員として、10か月間マニラに滞在した[11]。翌1944年(昭和19年)、自身にとって初の新聞小説『道は近し』を毎日新聞に連載した[11]。1954年(昭和29年)から光文社の雑誌「面白倶楽部」に連載した小説『台風息子』は、小石栄一の監督、江原真二郎らの主演により、1958年(昭和33年)に映画化もされた[15]。
小説家として14年間の作家生活の後[11]、ゴルフ史家として、ゴルフの著作や訳書を多く著し[5]、ゴルフ用語の由来[16][17]、ゴルフにまつわる名言や格言[18][19]、ゴルファーとしての心構えなどを説いた[20][21]。ゴルフ歴は40歳頃からであり、関東各地を始め、遠くは九州まで各地のゴルフ場を回っていた[22]。アメリカのゴルフ収集家協会(Golf Collector’s Society)に、日本人として初めて会員となり[17]、日本では日本ゴルフ協会の史料委員長を務めた[2][5]。1979年(昭和54年)には同協会史料委員長として、兵庫県のゴルフ博物館であるJGAゴルフミュージアムの開館にも尽力し[4][23]、ミュージアム運営副委員長も務めた[2]。千葉県のゴルフ場であるカレドニアン・ゴルフクラブの建設にあたっては、カレドニアンの会長である早川治良と親交があったことから、建設に対して強い影響を与えた[24]。
1988年(昭和63年)に、食欲の減退から入院[25]。同1988年8月、胃癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で、89歳で死去した[7][8]。
評価
[編集]小説家としての活動について、フリーの編集者である滝口浩は、戦争という緊張下において現れた作家として名を挙げており、雑誌「新青年」1939年(昭和14年)9月に掲載した『台風の彼方に』を「『ユーモア作家』として編集部に分類されていた摂津茂和の筆が、鮮やかにリアル・タイムの緊迫感を帯びてくる作品[* 1]」「間国家(インターナショナル)のドラマを摂津茂和は見事に描き出してみせた[* 2]」とし、摂津を「『新青年』が生んだ最大の国際小説家」と評価している[9]。摂津自身は、大学時代のヨーロッパ旅行の経験が、自身の小説執筆の題材を提供することになったと語っていた[11]。
直木賞創設に携わった菊池寛は、1942年(昭和17年)の直木賞審査後に、摂津が1941年(昭和16年)に刊行した第2作品集『三代目』を読み、「この作家は、大衆文学の芥川龍之介と云ってももいほど、物識りで才筆である。この人が、今迄直木賞の候補に上がらなかった事は[* 3]、我々委員会の手落であるとさえ思った[* 4]」と絶賛した[26]。
ゴルフ史家としては第一人者とされ[5][27]、ゴルフ書籍の収集家としても世界的に著名である[5][27]。千葉のカレドニアン・ゴルフクラブ建設に尽力したことについて、会長の早川治良は、摂津がいなければカレドニアンは無かったとして「カレドニアンの恩人」と語っている[6]。実業家の野間省一は、ゴルフについてわからないことは何でも教わったことから「ゴルフ博士」と呼んでいた[28]。没後、告別式の行われた同1988年8月29日は月曜日であり[7][8]、ゴルフ評論家である金田武明は「ゴルファーがもっとも気にしない月曜日が葬儀だったのもゴルフ人らしい」と語った[25]。
受賞歴
[編集]著作
[編集]小説
[編集]- 『颱風の彼方に 小説選集』博文館、1940年4月。 NCID BA58221461。[11]
- 『三代目』東成社〈ユーモア文庫〉、1941年。全国書誌番号:44057975。[11]
- 『和蘭勘定』読切講談社、1942年12月。 NCID BA5454897X。[11]
- 『横顔の提督』興亜日本社、1943年6月。 NCID BA5454897X。[11]
他、多数。
ゴルフ関連
[編集]- 『日本ゴルフ60年史』有明書房、1960年6月。 NCID BN06942407。[29]
- 『偉大なるゴルフ』ベースボール・マガジン社、1985年10月。ISBN 978-4-583-02551-3。[2]
- 『不滅のゴルフ名言集』ベースボール・マガジン社、1982年9月。ISBN 978-4-583-02137-9。[29]
- 『古典ゴルフひと口噺』ベースボール・マガジン社、1986年11月。ISBN 978-4-583-02600-8。[2]
- 『ゴルフ千夜一夜』ベースボール・マガジン社〈摂津茂和コレクション〉、1992年9月。ISBN 978-4-583-03015-9。[3]
他、多数。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『新青年』研究会 1988, p. 178より引用。
- ^ 『新青年』研究会 1988, pp. 178–179より引用。
- ^ 実際には、それ以前の1939年(昭和14年)に、摂津の『ローマ日本晴』が直木賞候補となっていた[3]。
- ^ 菊池 1960, pp. 480–481より引用。
出典
[編集]- ^ a b 講談社 1973, p. 791
- ^ a b c d e f g h i j 日外アソシエーツ 1973, p. 1401
- ^ a b c 上田他 2001, p. 1045
- ^ a b 週刊ゴルフダイジェスト 2015, p. 162
- ^ a b c d e “摂津茂和氏の念い”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b 西沢忠. “摂津茂和氏との邂逅がリンクス思想の原点”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b c 「摂津茂和氏 死去 本名・近藤高男 作家」『毎日新聞』毎日新聞社、1988年8月28日、東京朝刊、27面。
- ^ a b c d 「死亡 摂津茂和氏(作家、ゴルフ史家、本名近藤高男、近藤久男米国三井物産社長の父)」『北海道新聞』北海道新聞社、1988年8月29日、全道朝刊、23面。
- ^ a b 『新青年』研究会 1988, pp. 178–179
- ^ 狩野務「日本庭園とゴルフ見聞記」『よみタイム』2015年12月19日。2021年4月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 駿河台書房 1953, pp. 413–415
- ^ 「GOLF Part.3 Good Shot! 週刊ダイヤモンドが選んだ日本のベストコース150 第71回 第7位 鷹之台カンツリー倶楽部」『週刊ダイヤモンド』第91巻第39号、ダイヤモンド社、2003年10月11日、78-79頁、NCID AN00383144。
- ^ 『新青年』研究会 1988, p. 313.
- ^ 『新青年』研究会 1988, p. 224.
- ^ “台風息子”. Movie Walker. ムービーウォーカー. 2021年4月25日閲覧。
- ^ 吉岡英児「名キャディーは歌う プロの目に感心、逆に励まされ」『朝日新聞』朝日新聞社、1993年6月7日、東京夕刊、3面。
- ^ a b 江川靖男「お答えします ゴルフの打数示す用語のいわれは?」『中日新聞』中日新聞社、1996年10月6日、朝刊、8面。
- ^ 「日工ひろば 耳よりゴルフ場ガイド ゴロ寝派にゴルフ好著 名言集やミステリーもの」『日本工業新聞』日本工業新聞社、1992年12月26日、6面。
- ^ 「スポーツ物知り博士 ゴルフ編「ウエッジ」の種類」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、1997年10月29日、2面。
- ^ 横内恭「編集局デスク ゴルフと3コン」『中日新聞』1991年10月5日、朝刊、7面。
- ^ 「筆洗」『中日新聞』2005年10月4日、朝刊、1面。
- ^ 摂津茂和「腰痛と温泉」『温泉』第46巻第2号、日本温泉協会、1978年2月1日、13頁、NCID AN00034859。
- ^ 摂津茂和「バードンの手」『かんぽ資金』第59号、簡保資金研究会、1983年4月1日、29頁、NCID AN00095616。
- ^ “カレドニアン・ゴルフクラブ”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b 金田 1988, pp. 96–97
- ^ 菊池寛『菊池寛文学全集』 第7巻、文芸春秋新社、1960年4月20日(原著1942年)、480-481頁。 NCID BN03683936。
- ^ a b 魚住 2005, p. 108
- ^ 『野間省一伝』講談社、1996年7月、442頁。 NCID BN15267804。
- ^ a b “リンクスの再発見”. 日本ゴルフコース設計者協会. 2021年4月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 魚住了『コースで恥をかかないためのスタイリッシュ・ゴルフマナー&ルール読本』PHP研究所、2005年5月2日。ISBN 978-4-569-64278-9。
- 金田武明「摂津茂和氏を偲んで」『LA international』第25巻第14号、国際評論社、1988年9月15日、NCID AN10217797。
- 『現代ユーモア文学全集』 第4、駿河台書房、1953年11月。 NCID BA33954611。
- 「行方不明のアリソン 設計図発見で18ホール揃った!」『週刊ゴルフダイジェスト』第50巻第23号、ゴルフダイジェスト社、2015年6月23日、NCID AA11434132、2021年4月25日閲覧。
- 『新青年』研究会 編『新青年読本 昭和グラフィティ』作品社、1988年2月20日。ISBN 978-4-87893-135-2。
- 『大衆文学大系』 30巻、講談社、1973年10月20日。 NCID BN07833702。
- 日外アソシエーツ 編『20世紀日本人名事典』 上、日外アソシエーツ、2004年7月26日。ISBN 978-4-8169-1853-7 。2021年4月25日閲覧。
- 『日本人名大辞典』上田正昭他監修、講談社、2001年12月6日。ISBN 978-4-06-210800-3 。2021年4月25日閲覧。