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撒改

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
撒改(サガイ)
続柄 劾者(ヘテェ)息子

称号 陳国王
出生 不明
死去 1121年
父親 劾者(ヘテェ)
役職 国論忽魯勃極烈
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撒改(サガイ、生年不明 - 1121年)は、宗室。子に粘没喝(ネメガ、完顔宗翰)[注釈 1]阿懶中国語版(アラン、完顔宗憲)がいる。

人物・略歴

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金の世祖劾里鉢(ヘリンボ)の長兄の韓国公劾者(ヘテェ)の子。金の建国者の阿骨打(アクダ)がから自立して金朝を立てた際、サガイは1115年7月、国論勃極烈(国務大臣に相当)に任じられ[注釈 2][原史料 1]、大臣職に就いた。9月には国論忽魯勃極烈に改められた。

金史』「撒改伝」には「太祖(アクダ)は撒改(サガイ)と諸部を分治す。匹脱水以北は太祖がこれを統べ、米流水の人民は撒改がこれを統ぶ」と記されており、金朝の政府はアクダを首長とすると言いつつも、完顔氏の権力は2つの中心をもっていたと考えることができる[4][原史料 2]。1121年死去。死後、燕国王に追封された。海陵王正隆年間(1156年-1161年)には陳国公に降封されている。大定3年(1163年)、金源郡王を改めて贈られ、阿骨打(アクダ)の宗廟を受けて「忠毅」の号が授けられた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 子のネメガ(粘没喝)は契丹(キタン)人国家の遼を滅ぼし、金はこれにより内モンゴルを支配した[1][2][3]
  2. ^ 祖父の景祖烏古廼(ウクナイ)は、女真(ジュシェン)諸部の統一に際しての主要人物であった。烏古廼(ウクナイ)は次男のヘリンボの胆勇の気質を喜んで愛し、そのためヘリンボの子孫が金朝の統治者の地位を占めた。女真には、子供たちが成長すると、各自別の宮邸に移り住む習俗があったが、ウクナイは柔和な長男のヘテェと器量と知恵に勝るヘリンボとを同居させ、ヘテェには家政を任せ、ヘリンボには外事一切を主に担当させた。これが、ヘテェの子の撒改(サガイ)や孫の粘没喝(ネメガ)が勃極烈(国務大臣に相当)[4]に、ヘリンボ家の太祖阿骨打(アクダ)や阿骨打の弟の呉乞買(ウキマイ)が金の皇帝として君臨した一つの遠因となった。穆宗盈歌(インコ)は首長権を引き継いだ際、大臣に自身の長兄の劾者(ヘテェ)を立てることはできないと考え、ヘテェの子のサガイを国相に任じた。

原史料

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  1. ^ 『金史』巻一 本紀第一 世紀:「粛宗時擒麻産、遼命穆宗為詳穏。大安十年甲戌、襲節度使、年四十二。以兄劾者子撒改為国相。」[5]
  2. ^ 『金史』巻一 本紀第一 世紀:「景祖九子、元配唐括氏生劾者、次世祖、次劾孫、次粛宗、次穆宗。及当異居、景祖曰:「劾者柔和、可治家務。劾里鉢有器量智識、何事不成。劾孫亦柔善人耳。」乃命劾者与世祖同居、劾孫与粛宗同居。景祖卒、世祖継之。世祖卒、粛宗継之。粛宗卒、穆宗継之。穆宗復伝世祖之子、至於太祖、竟登大位焉。」[5]

出典

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参考文献

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  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 三上次男神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上; 神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。