播磨幸太郎
表示
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
愛称 | ハリコウ | |||||
カタカナ | ハリマ コウタロウ | |||||
ラテン文字 | HARIMA Kotaro | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 |
1915年 大日本帝国, 兵庫県神戸市 | |||||
没年月日 |
1953年7月19日(満38歳没) 日本, 兵庫県神戸市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
19xx-1933 | 兵庫県立第一神戸中学校 | |||||
1933-1938 | 慶應義塾大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1936-1939 | 慶應BRB | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。
来歴
[編集]兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる[1]。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。
1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。また、慶應義塾大学法学部卒業後の1939年6月の全日本蹴球選手権大會(第19回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で慶應BRBのメンバーとして優勝した。
在学中の1938年3月に全関東のメンバーに選出されて、4月7日のイズリントン・コリンシャンズ(イングランド)戦に出場した[2][3]。
1939年3月に日本代表候補に選出された[4] が、1939年9月の日満華交歓競技大会の代表からは漏れた。
現役引退後は日本代表のコーチや日本蹴球協会、関西蹴球協会の理事を歴任[5]。1946年に兵庫県サッカー協会の常務理事に就任した[6]。
脚注
[編集]- ^ ユーハイム体育・スポーツ振興会『神戸一中蹴球史』2011年3月。 NCID BB05662830。
- ^ 日本代表 試合別出場記録[リンク切れ]
- ^ 「英蹴球団を迎える 全関東軍の陣容成る」 朝日新聞、1938年4月3日、2016年3月10日閲覧
- ^ 「今年度蹴球代表」 読売新聞、1939年3月4日、2016年3月10日閲覧
- ^ a b 「播磨幸太郎氏死去」 朝日新聞、1953年7月21日、2016年3月10日閲覧
- ^ 『兵庫サッカーの歩み―兵庫県サッカー協会70年史』兵庫県サッカー協会、1997年12月。ISBN 4303990205。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 松丸 慶應は無敵の王者 情勢悪化の中で進化は続く - 賀川サッカーライブラリー
- 「東京」を2年後に控え、早慶の連合FWで 英国アマの強チームに4-0 - 賀川サッカーライブラリー