文室与伎
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時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 与企、那保企 |
官位 | 従四位下・大宰大弐 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 文室氏 |
父母 | 父:文室浄三 |
兄弟 |
沢王、与伎、真屋麻呂、三諸大原、 岡屋王妃 |
妻 | 平田孫王 |
子 | 弟直 |
文室 与伎(ふんや の よき)は、奈良時代の貴族。名は与企あるいは那保企(なおき)とも記される。大納言・文室浄三の子。官位は従四位下・大宰大弐。
経歴
[編集]宝亀11年(780年)従五位下に叙爵。延暦2年(783年)従五位上・相模介に叙任され、宝亀の乱終結後間もない東国へ赴任する。翌延暦3年(784年)相模守へ昇格すると共に、征東将軍・大伴家持に次ぐ征東副将軍に任ぜられ、蝦夷征討の任に当たる。延暦4年(785年)に大伴家持が没するなどもあり、与伎自身は蝦夷征討で目立った活動を起こすことはなかった。
延暦6年(787年)右中弁に転任して京官に復し、延暦8年(789年)正五位下に昇叙される。延暦9年(790年)正五位上・大宰大弐に任ぜられ、今度は西国の地方官に転じる。その後、従四位下まで昇った。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 宝亀11年(780年) 正月7日:従五位下
- 天応元年(781年) 12月23日:御装束司(光仁上皇葬儀)
- 延暦2年(783年) 正月16日:従五位上。2月25日:相模介
- 延暦3年(784年) 2月:征東副将軍。3月14日:相模守
- 延暦6年(787年) 9月17日:右中弁
- 延暦8年(789年) 正月6日:正五位下。12月29日:御葬司(皇太后・高野新笠葬儀)
- 延暦9年(790年) 正月26日:周忌御斎会司。3月10日:大宰大弐。閏3月11日:御葬司(皇后・藤原乙牟漏葬儀)。4月4日:正五位上
- 時期不詳:従四位下[1]