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文秀女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文秀女王
伏見宮

称号 福喜宮(ふきのみや)
身位 女王
敬称 殿下
Her Imperial Highness
出生 天保15年1月29日
(新暦:1844年3月17日
平安京
死去 (1926-02-15) 1926年2月15日(81歳没)
埋葬 大日本帝国の旗 大日本帝国奈良県添上郡帯解村(現:奈良市)、圓照寺
父親 伏見宮邦家親王
母親 木村世牟子
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大知文秀
天保15年1月29日 - 大正15年2月15日
法名 文秀
法号 大知
院号 最勝心院
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
寺院 圓照寺
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文秀女王(ぶんしゅうじょおう、天保15年1月29日1844年3月17日) - 大正15年(1926年2月15日)は、江戸時代末期から明治時代大正時代皇族で、僧侶書家

皇族として尼門跡となった最後の人物。

生涯

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天保15年1月29日(グレゴリオ暦1844年3月17日)、伏見宮邦家親王と女房木村世牟子の間に生まれる。邦家親王の第7女子。

嘉永2年[注釈 1]6月22日(グレゴリオ暦:1849年8月10日)、圓照寺の門跡を相続[1]。嘉永4年9月20日1851年10月14日)、満7歳の時に落飾[2]

万延元年12月3日1861年1月13日)、孝明天皇の養女となる[2]明治6年(1873年)8月13日に伏見宮に復帰した[2][1]

大正14年(1925年)頃から持病のリウマチが悪化し、大正15年(1926年)2月10日に感冒を発症した後、同年2月15日午前10時に薨去した[3][4]2月23日に葬儀が圓照寺で執り行われ、喪主は博英王[注釈 2]が務めた[5]

参考文献

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  • 国書刊行会 編『系図綜覧』 第1、国書刊行会、1915年。全国書誌番号:50006721 NDLJP:1879305
  • 東洋文化協会 編『皇室皇族聖鑑』 大正篇、東洋文化協会、1937年。全国書誌番号:46052214 NDLJP:1206838

脚注

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注釈

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  1. ^ 出典では「弘化6年」だが、弘化は5年まで存在しない。その翌年は嘉永2年である。
  2. ^ 文秀女王の異母兄伏見宮貞愛親王の孫、当時13歳。

出典

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  1. ^ a b 皇室皇族聖鑑(大正篇) 1937 p.130
  2. ^ a b c 系図綜覧 1915 p.96
  3. ^ 『官報』号外「宮廷録事」、大正15年2月15日(NDLJP:2956191/18
  4. ^ 大正15年宮内省告示第1号(『官報』号外、大正15年2月15日)(NDLJP:2956191/18
  5. ^ 『官報』第4044号「宮廷録事」、大正15年2月19日(NDLJP:2956195/3

関連項目

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  • 圓照寺(奈良県奈良市) - 皇室ゆかりの尼寺
  • 霊鑑寺(京都府京都市左京区) - 皇室ゆかりの尼寺

外部リンク

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