斎藤信利
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 慶長10年8月4日(1610年9月20日) |
別名 | 齋藤信利、通称:次郎右衛門尉 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 上杉謙信→織田信長→上杉景勝→佐々成政→徳川家康 |
氏族 | 斎藤氏 |
父母 | 父:斎藤利基、母:神保氏娘 |
兄弟 | 信利、五郎次郎信言、信吉 |
妻 | 三木良頼娘 |
子 |
利次、利治、利政、正利、利信、 戸田由利室 |
斎藤 信利(さいとう のぶとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。越中国城生城(蛇尾城)主。
出自
[編集]越中斎藤氏は藤原北家利仁流を称す、越中国婦負郡楡原保[1]一帯に勢威を張った国人。
南北朝時代、桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が、文和年間に室町幕府初代将軍・足利尊氏より越中国に領地を賜ったことに始まるとされる。同じ越中国の神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。
生涯
[編集]天正元年(1573年)に父・利基が死去したため跡を継ぐ。当初、越後国の上杉氏に臣従していたが、上杉謙信が急死するやいち早く織田信長に誼を通じた。居城の城生城は飛騨国と越中国を結ぶ交通の要地であり、織田氏から家臣・斎藤利治らの軍勢が送り込まれ越中進出の拠点となった。織田軍は天正6年(1578年)の月岡野の戦いで上杉軍に大勝、信利も手柄をあげ、弟・信吉も今泉城を攻略するなど積極的に貢献した。織田信長は斎藤兄弟のこれらの働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は信長からの偏諱という。
ところが再び上杉氏に接近し、天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し織田信長が横死すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。上杉景勝と結んで越中一国を支配していた織田重臣・佐々成政に抵抗したが居城を奪われると、義兄である飛騨国の姉小路頼綱を頼り落ち延びた。
その後、頼綱の仲介によるものか佐々成政に仕えて、能登国との国境の要衝である湯山城を守った。成政が没落すると徳川家康に召し出され、下総国や近江国で1500石を給された。
慶長15年(1610年)8月4日、山城国伏見にて死去。享年57。
子孫は江戸幕府旗本として続いた。赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔にあたる。