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斎藤信利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
斎藤信利
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文23年(1554年
死没 慶長10年8月4日1610年9月20日
別名 齋藤信利、通称:次郎右衛門尉
幕府 江戸幕府旗本
主君 上杉謙信織田信長上杉景勝佐々成政徳川家康
氏族 斎藤氏
父母 父:斎藤利基、母:神保氏
兄弟 信利五郎次郎信言信吉
三木良頼
利次利治利政正利利信
戸田由利
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斎藤 信利(さいとう のぶとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将旗本越中国城生城(蛇尾城)主。

出自

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越中斎藤氏藤原北家利仁流を称す、越中国婦負郡楡原保[1]一帯に勢威を張った国人

南北朝時代桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が、文和年間に室町幕府初代将軍足利尊氏より越中国に領地を賜ったことに始まるとされる。同じ越中国の神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。

生涯

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天文23年(1554年)、斎藤伯耆守利基の子として誕生。

天正元年(1573年)に父・利基が死去したため跡を継ぐ。当初、越後国上杉氏に臣従していたが、上杉謙信が急死するやいち早く織田信長に誼を通じた。居城の城生城は飛騨国と越中国を結ぶ交通の要地であり、織田氏から家臣・斎藤利治らの軍勢が送り込まれ越中進出の拠点となった。織田軍は天正6年(1578年)の月岡野の戦いで上杉軍に大勝、信利も手柄をあげ、弟・信吉今泉城を攻略するなど積極的に貢献した。織田信長は斎藤兄弟のこれらの働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は信長からの偏諱という。

ところが再び上杉氏に接近し、天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し織田信長が横死すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。上杉景勝と結んで越中一国を支配していた織田重臣・佐々成政に抵抗したが居城を奪われると、義兄である飛騨国の姉小路頼綱を頼り落ち延びた。

その後、頼綱の仲介によるものか佐々成政に仕えて、能登国との国境の要衝である湯山城を守った。成政が没落すると徳川家康に召し出され、下総国近江国で1500石を給された。

慶長15年(1610年)8月4日、山城国伏見にて死去。享年57。

子孫は江戸幕府旗本として続いた。赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔にあたる。

脚注

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  1. ^ 現・富山市楡原

外部リンク

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