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斎藤常三郎 (法学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
斎藤 常三郎
生誕 1878年11月20日
福島県若松町[1]
死没 (1951-07-22) 1951年7月22日(72歳没)
福島県若松市[2]
居住 日本の旗 日本
研究分野 破産法和議法(民事訴訟法)
研究機関 神戸高等商業学校
神戸商業大学
京都帝国大学
福島県立会津短期大学
出身校 福島県立会津中学校
第一高等学校政治科
京都帝国大学法科大学独法科
京都帝国大学大学院法科
民事訴訟法専攻)[3]
主な業績 「和議制度の研究」
『注釈訴訟記録』
『日本破産法』
『比較破産法論』
『日本和議法論』
プロジェクト:人物伝
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斎藤 常三郎(さいとう つねさぶろう、1878年明治11年)11月20日 - 1951年昭和26年)7月22日[4]) は、日本の法学者和議法破産法の権威者[5]で、神戸商業大学京都帝国大学の各教授、会津短大学長を歴任した。「和議制度の研究」で、法学博士京都帝国大学[6]日本学士院会員[4]

生涯

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業績

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実務経験を有する研究者であり、判事時代に著した『注釈訴訟記録』は実務家、研究者双方に貴重な著作として扱われた[1]。日本の民事訴訟法1890年(明治23年)に制定されたが、その学問的研究が発展を遂げるのは大正中期以降であり、斎藤はその先駆者の一人である[7]。『日本破産法』は1922年(大正11年)制定された(新)破産法に関するもので、同法に関する書として加藤正治の『破産法要論』と並ぶ代表的著作である[7]。『比較破産法論』は斎藤の特色の一つであった比較制度論的研究[1]が示されている著作で、評価が高い[7]。『日本和議法論』は、和議法研究の最高権威[7]である。日本学士院会員に選任されたのは、死去の前年にあたる1950年(昭和25年)であった。末川博[* 1]は斎藤の研究につき、民衆の権利擁護、経済的弱者の庇護を目的とする良心的な主張がある旨を述べている[1]大阪大学にはその蔵書1971冊を収めた斎藤文庫が設けられている[8]

会津短大の創立

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1949年(昭和24年)、若松商業に高校卒業後2年間の教育を行う専攻科が設置され、斎藤はその教員となる。専攻科の設置は短大創設準備の一環で、斎藤は創立運動の中心人物[9]として活動した。会津短大の開学にあたって初代学長に就任。第一回入学式は1951年(昭和26年)5月5日である。

経歴

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斎藤源四郎の三男[10]として、福島県に生まれる[11]会津中学一高政治科[12]を経て、1904年(明治37年)に京都帝大独法科を卒業[10]司法官試補となり[1]、また大学院で民事訴訟法を専攻する[13]1906年(明治39年)から判事[1]として、大阪地方裁判所[14]大阪控訴院[10]で勤務した。1919年大正8年)より神戸高商教授を務め、民法破産法などを担当し[15]、また在外研究員として海外に派遣されている[16]1926年(大正15年)3月に博士号を取得。神戸商大[* 2]教授として民法総則物権を担当した[17]1933年(昭和8年)に京都帝大で滝川事件が発生すると、法学部教官はその3分の2が大学を去る事態となり[18]、同年末に斎藤は京都帝大教授を兼務した。京都帝大には1938年(昭和13年)12月まで在職[19]し、破産法を担当した[20]。神戸商大からの退官も同年で、1940年(昭和15年)に名誉教授の称号を授与される。退官後は弁護士となり、神戸商大講師[1]としても講義を続け、また 日本諸学振興委員会の常任委員を務める[21]。戦後の1951年(昭和26年)1月31日に設立認可を受けた会津短大の初代学長に就任し、在任半年余りで死去した。

著述

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著作
  • 『注釈訴訟記録』弘文堂書房、1919年
  1. 第一審手続
  2. 第二審手続
  • 『破産法及和議法研究』弘文堂書房
  1. 第一巻』、1926年
  2. 第二巻』、1927年
  3. 第三巻』、1928年
  4. 第四巻』、1928年
  5. 第五巻』、1929年
  6. 第六巻』、1930年
  7. 第七巻』、1931年
  8. 第八巻』、1933年
  9. 第九巻』、1934年
  10. 第十巻』、1936年
  11. 第十一巻』、1938年
  • 『民法要論総則』弘文堂書房、1928年
  1. 第一巻
  2. 第二巻
  • 『日本民訴訟法講義案』弘文堂書房、1934年
  1. 証拠調
  2. 上訴以下
  • 『日本民法講義』
  1. 総則』弘文堂書房、1934年
  2. 物件第一』弘文堂書房、1935年
  3. 債権各論一』甲文堂書店、1939年
  • 『日本和議法論』弘文堂書房
  1. 上巻』、1926年
  2. 下巻』、1934年
講演集
滝川事件で辞任した小西重直京都帝大総長。小西は斎藤の母校の前身校である私立日新館出身[22]で、小西と斎藤は会津会会員[23]であった。
  • 神戸高等商業学校商業研究所編『斎藤常三郎講演』
  1. 第十冊和議法に就いて』、1924年
  2. 第二十二冊民事政策と弁護士制度』、1925年
  3. 第三十三冊住所に関する考察』、1927年
  4. 第三十七冊支払猶予に関する法律的考察』1927年
  5. 第三十九冊破産及び和議と信託』、1928年
  6. 第四十二冊新しき主義の民法』、1929年
  7. 第四十四冊破産管財人の監督』、1930年
  8. 第四十七冊法人信任の傾向』、1930年
  9. 第五十七冊破産・和議債権者の職業的代理人』、1932年
その他

脚注

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注釈
  1. ^ 斎藤と同時に学士院第一部人文科学会員に選ばれる(『朝日新聞縮刷版 (復刻版)昭和25年9月-12月』「昭和25年10月7日」)。
  2. ^ 神戸高商の後身。
  3. ^ 冒頭の肖像写真はこの論文集に掲載されている。執筆者は中村宗雄小野木常(阪大教授)、田中和夫兼子一吉川大二郎(日弁連会長)、川上太郎(神戸大法学部長)、牧健二斎藤秀夫石田文次郎北村五良(神戸大法学部長)、田島順(京都帝大教授)、岩田新林良平(京大教授)、木村健助(関西大学法文学部長)、烏賀陽然良(京大教授)、大隅健一郎八木弘(神戸大法学部長)、大森忠夫(京都帝大教授)、渡辺宗太郎(京大法学部長)、田中周友(京大教授)、池田栄(関西大学教授)、俵静夫田中保太郎(神戸大学長)である。石田は斎藤と同じく滝川事件後に京都帝大教授となった。
出典
  1. ^ a b c d e f g 「斎藤常三郎会員」
  2. ^ 『朝日新聞縮刷版 (復刻版)昭和26年7月-8月』「昭和26年7月23日」(日本図書センター、1994年)
  3. ^ 『京都帝国大学一覧 明治37-38年』28頁
  4. ^ a b 物故会員一覧”. 日本学士院. 2014年11月23日閲覧。
  5. ^ 『20世紀日本人名事典 (あ-せ)』「斎藤常三郎」
  6. ^ 斎藤常三郎著 和議制度の研究”. 2014年11月23日閲覧。
  7. ^ a b c d 「時論 民事訴訟法学の過去及び現在 その文献と業績調査」
  8. ^ 大阪大学附属図書館コレクション”. 大阪大学附属図書館. 2014年11月23日閲覧。
  9. ^ 『福島県立会津短期大学沿革史 開学30周年記念』5頁
  10. ^ a b c 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』「斎藤常三郎」
  11. ^ 『ドキュメント 人と業績大事典』(第10巻) ナダ出版センター、2000年
  12. ^ 『第一高等学校一覧 自大正2年至3年』226頁
  13. ^ 『京都帝国大学一覧. 明治37-38年』28頁
  14. ^ 「会津育英会事業状況(続) 会津育英会貸費生調(大正四年十二月調)」
  15. ^ 『神戸高等商業学校一覧. 大正8年』80頁
  16. ^ 『神戸高等商業学校一覧. 大正9年』58頁
  17. ^ 『神戸商業大学一覧 昭和8年3月』148頁
  18. ^ 松尾尊兊滝川事件以後 : 京都大学法学部再建問題」『京都大学大学文書館研究紀要』第2巻、京都大学大学文書館、2004年2月、1-27頁、CRID 1390290699816264704doi:10.14989/68848hdl:2433/68848ISSN 1348-91352024年7月4日閲覧 
  19. ^ 『京都帝国大学一覧. 昭和14年度』308頁
  20. ^ 『京都帝国大学一覧 昭和9年』214頁
  21. ^ 廣濱嘉雄「<學界>齋藤博士還暦記念「法と裁判」」『国民経済雑誌』第74巻第4号、神戸高等商業学校、1943年4月、93-98頁、doi:10.24546/00055731ISSN 0387-3129NAID 1200036596652021年5月20日閲覧 (廣浜は東北帝大教授)
  22. ^ 松野良寅『会津の英学』歴史春秋社、177頁
  23. ^ 『会津会会員名簿 大正八年六月発行』

参考文献

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関連する人物

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  • 斎藤良衛 - 第2代会津短大学長。中学時代の2年後輩でもあった。
  • 仁井田益太郎 - 斎藤の京都帝大院生時代に民事訴訟法を担当していた京都帝大教授。
  • 三淵忠彦 - 斎藤の京都帝大学生時代の後輩。

外部リンク

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