新井進
Susumu ARAI | |
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基本情報 | |
名前 | 新井 進 |
生年月日 | 1929年9月7日(95歳) |
国籍 | 日本 |
経歴 |
新井 進(あらい すすむ、1929年9月7日 - )は、日本のプロゴルファー。
来歴
[編集]1957年の日本プロではマッチプレーに進出する16人を決める36ホールのストロークプレーである初日、通算2アンダーの142で小野光一と共に予選を1位タイで通過し、本戦では2日目の2回戦で中村寅吉に6&4で敗れている[1]。
1960年には奈良国際GCで行われた関西オープン[2]で杉原輝雄を抑えて優勝し[3]、1963年には同地開催の関西プロ[4]で橘田規を抑えて優勝[5]。
1963年の中日クラウンズでは最終日第3ラウンドを72で回って2打差2位に急浮上し、第4ラウンドでは78を叩いて4位にとどまった[6]。
1967年の第1回西日本サーキットBSシリーズでは初日を中村・橘田と共に首位の藤井義将を追う形でスタートし、最終日には午前中に調子を崩した藤井を抑えて3アンダーで首位に立つ[7]。追う中村、橘田に3打差で楽に優勝かと思われたが、午後の最終インコース11番で3パットのボギーとし、続く12、14番をバーディを出した中村に追いつかれて苦戦となる[7]。中村は久々の優勝のチャンスを迎えて、それまでのユーモアな笑いも消えて真剣そのものとなり、新井も顔面が固くなっているのが判るほどの緊張ぶりを見せた[7]。新井は15番で2打グリーンを外して寄せたのが入らずボギーとし、中村に逆に1打リードされたが怯まず、16番ではうまくピン側に寄せてバーディを取り再びタイに持ち込んだ[7]。中村と新井の激しい鍔迫り合いにギャラリーも湧き、次の17番で中村はグリーンオーバーからの返しのショートアプローチが下りという難しい場面となり、これを意識しすぎてショートし、1mのパットが入らぬ致命傷となる[7]。新井は再び1打リードをとって最終18番ホールとなり、中村は2オン8mのパットを狙ったが惜しくも外れる[7]。新井が中村と1打差、3位の橘田とは2打差という激戦の末、通算6アンダー282で逃げ切って優勝、賞金50万円を獲得[7]。
1968年の第2回西日本サーキットBSシリーズではコースを覚え込んだのか、4位に食い込んだ[7]。1日競技の全日本トッププロ招待では午前69・午後67と60台を続けてマークしたが、午前63をマークした宮本省三の2位に終わる[8]。日本プロでは2日目にラフに苦しんでスコアを落とす関東勢を尻目に、首位に立った島田幸作から1打差の2位に着け、3打差3位タイに松田司郎・杉原と上位には関西勢が並んだ[9]。
1974年のKBCオーガスタでは2番で大会初のホールインワンを記録[10]。
城陽カントリー倶楽部所属で、教え方では関西ナンバー1といわれ[11]、弟子には能田征二・山本善隆[12]がいた。
元々理論的にゴルフをしたいと思っていた新人研修生の山本に、新井の教えはピタリとハマった[11]。新井は説明した後に言った通りに打って見せ、基本的なことを教え[11]、山本は新井や能田らと一緒にラウンドしていたことで成長した。
主な優勝
[編集]- 1960年 - 関西オープン
- 1963年 - 関西プロ
- 1968年 - 西日本サーキットBSシリーズ
脚注
[編集]- ^ 第25回日本プロゴルフ選手権(1957年)
- ^ 大会概要(大会歴史) | 関西オープンゴルフ選手権
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ コース紹介 | 奈良国際ゴルフ倶楽部 公式ホームページ
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ a b c d e f g h 「BSCCの歴史」ブリヂストンカンツリー倶楽部公式ウェブサイト
- ^ 公式ホームページ - くずはゴルフリンクス
- ^ 第36回日本プロゴルフ選手権(1968年)
- ^ 朝日新聞縮刷版p842 昭和52年8月28日朝刊18面「混戦、鈴木・青木が並ぶ 一打差で矢部ら三人も追う KBCオーガスタ・ゴルフ」
- ^ a b c あの頃ボクは若かった 昭和の履歴書 vol.25 -山本善隆-
- ^ PGA会員詳細 - 公益社団法人 日本プロゴルフ協会