宮本省三
Shozo Miyamoto | |
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基本情報 | |
名前 | 宮本 省三 |
生年月日 | 1940年3月1日 |
没年月日 | 2017年9月4日(77歳没) |
身長 | 165 cm (5 ft 5 in) |
体重 | 60 kg (132 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府 |
経歴 |
宮本 省三(みやもと しょうぞう、1940年3月1日 - 2017年9月4日)は大阪府出身のプロゴルファー。
弟の宮本康弘もプロゴルファー。
来歴
[編集]茨木カンツリー倶楽部とは目の鼻の先にある茨木市立豊川中学校出身[1]で、弟の康弘、中村通・山本善隆・前田新作・井戸木鴻樹は同校の後輩に当たる[2]。
13歳でゴルフを始めると[3]、中学卒業後は茨木CCで修業し、1961年にプロ入り[4][3]。1962年の関西プロで初優勝を飾り、1966年の関西オープンを制する[5][3][4]。茨木CCの先輩である杉原輝雄に「あんな練習の虫は他にいない」と言わしめるほどの練習量で、関西のホープ[4]となり、戦後のプロゴルフ界に黄金時代を築いた「茨木一門」[6]の一人として活躍した。
1962年11月には石井朝夫・小野光一・杉原・林由郎・勝俣功と共に、埼玉県比企郡滑川町に開場した高根カントリー倶楽部の18ホールストロークプレーの記念競技に招待出場[7]。
1967年の日本プロでは3日目を河野高明らと共に5位に付け、最終日は序盤に9アンダー首位で並ぶ橘田規・石井が11アンダーにスコアを伸ばす中、一歩下がった位置で自分のゴルフをしていた宮本のエンジンが8番パー3でかかる[4]。距離のあるこのホール、ボギーとする選手が多い中、宮本は3番アイアンで2メートルに付けてバーディーを奪う[4]。続く9番もバーディーとして先頭グループに追いつくと、15番パー5、宮本の2打目はグリーン手前のバンカーに捕まったかに見えたが、うまく転がり出て2オンに成功した[4]。2パットでバーディーを奪い、12アンダーでついに単独首位に出た[4]。続く16番パー3、石井が8mのバーディーパットを外した後、ほぼ同じ位置から宮本が決める[4]。2位の石井に2打差をつけ、宮本は17番をボギーとしたが、石井を1打差で抑えて優勝した[4]。
1968年には全日本トッププロ招待を新井進を抑えて制し[8]、1974年にはスポーツ振興インターナショナルで安田春雄を破って[9]4年ぶりの優勝[10]を飾る。
1976年のペプシウィルソントーナメントでは初日はインからスタートして、 いきなり10番で10mのパーティーパットを沈め気分を良くすると、アウトでも4、6、9番の3〜7mのパットを着実に決めた[11]。強風のコンディションであったが、4バーディー、ノーボギー、68の好スコアで首位に立つ[11]。2日目にはスタートで躓き、一時はグラハム・マーシュ(オーストラリア)に逆転されたが、安定したゴルフでスコアを伸ばして再逆転し、通算5アンダーで首位を守った[12]。豪雨による54ホール短縮競技の最終日[13]には最終ホールの8mのパットをボール1つ外してしまい[14]、ピーター・トムソン、マーシュ、ブライアン・ジョーンズの豪州勢と共にプレーオフとなり、サドンデスによる死闘を繰り広げたが、宮本は1ホール目にボギーで早々に敗退している[13][15][16]。
1977年には日本プロ東西対抗の西軍メンバーに選出され、東軍の中嶋常幸と共に68をマークし、会場となった秋田椿台カントリークラブのコースレコードを記録[17]。
1980年の日本プロでは自信がなかったパットを恐る恐る打つことで入り、2日目には3バーディー、2ボギーの70に手堅くまとめて首位タイとなるが、最終的には長谷川勝治・藤木三郎と並んで10位タイに終わった[18]。
1981年の東北クラシックで杉原の2位に入ると[19]、1983年にはデザントカップ北国オープンで謝玉樹・呂西釣の台湾勢を抑えて通算5アンダーで9年ぶりの優勝を飾る[20]。
1988年のデサント大阪オープンでは初日に67をマークして井戸木・山本善・楠本研を抑え、杉原の2位タイ[21]でスタートし、2日目には69で山本洋一とのプレーオフの末の2位[22]に終わった。
1990年の関西プロ[23]を最後にレギュラーツアーから引退し、シニア転向後は1990年の関西プロシニアなど3勝を挙げ[4]、1999年には全日空・石垣島シニアプロアマで石井裕士の2位[24]に入る。
2017年9月4日、肝血管肉腫のため、茨木市の彩都友紘会病院で死去[3]。77歳没。
主な優勝
[編集]レギュラー
[編集]- 1962年 - 関西プロ
- 1966年 - 関西オープン
- 1967年 - 日本プロ、西日本サーキット下関、瀬戸内サーキット広島
- 1968年 - 全日本トッププロ招待
- 1974年 - スポーツ振興インターナショナル
- 1983年 - デザントカップ北国オープン
シニア
[編集]- 1990年 - 関西プロシニア
- 1991年 - KTVシニア
脚注
[編集]- ^ 宮本 省三選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
- ^ 久保田千春 (2013年7月10日). “関西で人気絶大、正確無比なショット――シニアで輝く井戸木鴻樹の源流”. SportsNavi. 2023年6月18日閲覧。
- ^ a b c d “宮本省三氏死去…67年「日本プロ」Vなど通算12勝”. サンケイスポーツ. (2017年9月6日) 2023年6月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 第35回日本プロゴルフ選手権(1967年) - 日本プロゴルフ殿堂(殿堂コラム)2023年6月18日閲覧。
- ^ 大会概要(大会歴史) - 関西オープンゴルフ選手権
- ^ 倶楽部の歴史 (昭和) - 茨木カンツリー倶楽部
- ^ 倶楽部概要・歴史 – 高根カントリー倶楽部
- ^ トラディショナル - くずはゴルフリンクス
- ^ McCormack, Mark (1975) (英語). The World of Professional Golf 1975. Collins. pp. 254, 432–433. ISBN 0002119552
- ^ 宮本省三(茨木) 男子プロゴルファー “スポーツ振興オープン・ゴルフ” 最終日 優勝
- ^ a b 朝日新聞縮刷版p622 昭和51年5月21日朝刊16面「宮本省リード 尾崎ら二位三人 ペプシ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p695 昭和51年5月23日朝刊15面「宮本省首位守る ペプシ・ゴルフ」
- ^ a b 武藤一彦 (2021年9月28日). “ツアー最長プレーオフ 14ホールの死闘/残したいゴルフ記録”. ゴルフダイジェスト・オンライン. 2023年6月18日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p723 昭和51年5月24日朝刊19面「死闘!プレーオフ14ホール トムソンが優勝 ペプシ・ゴルフ」
- ^ 宇部72㏄の歴史 - 宇部72カントリークラブ
- ^ “Thomson wins 14-hole play-off” (英語). Sydney Morning Herald (シドニー): p. 13. (24 May 1976) 2023年6月18日閲覧。
- ^ クラブ概要 – 秋田椿台カントリークラブオフィシャルサイト
- ^ 第48回日本プロゴルフ選手権(1980年) - 日本プロゴルフ殿堂(殿堂コラム)2023年6月18日閲覧。
- ^ McCormack, Mark H. (1982). Dunhill World of Professional Golf 1982. Collins. pp. 238, 459–460. ISBN 0862541018
- ^ 宮本九年ぶりの優勝 北国オープンゴルフ最終日 - 共同通信(1983年8月7日)2023年6月18日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p824 昭和63年7月17日朝刊26面
- ^ 朝日新聞縮刷版p860 昭和63年7月18日朝刊22面
- ^ 宮本 省三選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構
- ^ 全日空,石垣島シニアプロ/アマトーナメント
外部リンク
[編集]- 宮本 省三選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構