勝俣功
Isao Katsumata | |
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基本情報 | |
名前 | 勝俣 功 |
生年月日 | 1937年8月24日 |
身長 | 170 cm (5 ft 7 in) |
体重 | 76 kg (168 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県 |
経歴 | |
プロ転向 | 1959年 |
勝俣 功(かつまた いさお、1937年8月24日 - )は神奈川県出身のプロゴルファー。
来歴
[編集]1959年にプロ入りすると、同年の報知プロ新人で杉本英世を抑えて[1]初優勝し[2]、3年目の1961年には海野憲二・今田慶之助をプレーオフで破って[3]同大会2勝目[4]を挙げる。
1961年には中日クラウンズで初日第1ラウンド69と好位置に着け、第2ラウンドでは6番でチップインバーディを奪うなどアウトだけで4バーディ、通算5アンダーの快進撃を演じる[5]。18番では左ラフからの第2打をOBとしたが、それでも通算3アンダーで単独首位に立った[5]。最終日には固いグリーンにスコアを崩し、第3ラウンドまでは1つスコアを落とし通算2アンダーとしたものの首位をキープしたが、石井朝夫、オービル・ムーディ( アメリカ合衆国)に次ぐ3位[5]に入った。
日本オープンでは最終日は小野光一・細石憲二、謝永郁・陳清波( 中華民国)と共に同スコアで並ぶ大接戦になり、日没にも決着がつかなかった。暗闇の中でプレーオフが行われた結果、自動車のヘッドライトの下で細石の優勝が決まり[6] [7]、勝俣は惜しくも2位タイとなるが、ホールカップをライトで照らしながらの「暗闇のプレーオフ」は現在も語り継がれている[2]。
以降も関東のトッププロとして活躍し[2]、1962年の読売国際では初日に3アンダー69でゲーリー・プレーヤー( 南アフリカ共和国)のコースレコードを破ると同時にアル・ボーディング( カナダ)と小針春芳を1打差でリードして首位に立ち[8]、2日目には77を叩いてピーター・トムソン( オーストラリア)から6打差の10位タイ[9]に後退したが、3日目にはイーブンパー72で7位タイに浮上[10]。11月には石井・小野・杉原輝雄・林由郎・宮本省三と共に、埼玉県比企郡滑川町に開場した高根カントリー倶楽部の18ホールストロークプレーの記念競技に招待出場[11]。
1964年はフィリピンオープンで初日をイーブンパーの72でスタートし、首位のボブ・チャールズ(オーストラリア)の4打差、ダグ・サンダース(アメリカ)と並んでの4位タイ[12]となった。3日目には73を打ってスコアが上がったにもかかわらず、サンダース、トムソンと並び3位タイに浮上したが首位チャールズとは6打差となり[13] [14]、最終日は6位タイ[15]に終わった。
キャピトルヒルズオープンでは3日目に再び優勝争いに加わるも首位タイのトムソン・石井に5打差をつけられ、最終日には再び低調なプレーを見せたが、75を記録し10位タイ[16] [17]に終わった。翌週のシンガポールオープンでは72でフランク・フィリップス(オーストラリア)と3打差の8位タイからスタートし、激しい雨に見舞われた2日目には74を打ったが、首位タイのラルフ・モフィット( イングランド)、ブライアン・ハゲット( ウェールズ)に次ぐ3位タイに浮上[18]。3日目には75を打ったが、首位ハゲットの4打差で優勝争いに残った[19]。8月には同年のカナダカップ日本代表の補欠選手に選出された[20]。
1965年のシンガポールオープンでは3日目終了時点で首位の橘田規とは9打差であったが、最終日には6アンダー67を放って4位となった[21]。
1966年のシンガポールオープンでは最終日に1アンダー70を記録し、フィリップスの4位タイでフィニッシュ[22]。マレーシアオープンでは1アンダー71でスタートし9位タイ[23]となり、1アンダーのまま入った最終日[24]に2アンダー70を叩き出し、優勝したハロルド・ヘニング(南アフリカ)と7打差、細石と並んでの5位タイ[25] [26]に浮上。
1967年のタイランドオープンでは71で首位の許渓山(中華民国)から3打差の4位タイに着け[27][28]、最終的には292で7位[29]に終わった。
1970年の香港オープンでは2日目終了時点では2アンダー138で首位の安田春雄から4打差となり、3日目で彼は5バーディ、1ボギーの66を叩き出し、ブルース・フライシャー(アメリカ)と安田を1つ上回る首位に浮上。最終日には1バーディ、2ボギーという不安定なスタートを切ったが、バックナインで安定して1アンダー35を記録し、勝俣はイーブンパー70で安田を1つ破って優勝[30]。2位に安田、3位に河野高明、4位に島田幸作と日本人が上位を独占する[31]。勝俣は勝った直後にギャラリーから騒々しい歓声で迎えられ、試合後には「私の夢がかなった」「私はとても幸せな男です。」と語った[32]。
1972年のファーストフライトではホールインワン賞100万円がかかった15番でホールインワンを決めたが、提出したスコアカードに誤記があり痛恨の失格となる[33]。当時、100万円のホールインワン賞といえば破格で、小さなトーナメントの優勝賞金に匹敵するほどの額であり、ファーストフライトでは単独2位の賞金が丁度100万円であった[33]。失格となったため100万円は貰えなかったが、主催者の温情で“残念賞”として15万円が贈られた[33]。
1971年から関東プロゴルフ協会役員として協会の運営に携わり、1984年以降は日本プロゴルフ協会の理事としてトーナメント管理委員長、1987年からは副会長に就任[2]。協会の中心的役割を担い、ゴルフの普及振興に多大な貢献をしたほか、トーナメント管理委員長歴任中は現在のツアー競技の基礎を築き上げ、多数の新規競技を立ち上げた[2]。特にプロゴルフ競技を通じてのプロゴルファーによる社会的貢献活動を提唱し、チャリティ活動を目的とした「PGAフィランスロピートーナメント」の新規開催に尽力した[2]。
1990年には日本プロスポーツ大賞功労賞、2004年にはスポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受賞[34]。
ゴルフコース設計者としても活躍し[35]、1993年にはタイ・バンコク近郊に開場したサワンリゾート&ゴルフクラブ[36] [37] [38]を監修[39]。全体的に周囲の木が主張をしつつ、フェアウェイはフラットながらも若干の起伏があり、バンカーの形も綺麗でまたハザードの配置が緻密で、中上級者は楽しくプレーできる設計[40]となっている。
主な優勝
[編集]- 国内
- 1959年 - 報知プロ新人
- 1961年 - 報知プロ新人
- 海外
- 1970年 - 香港オープン
脚注
[編集]- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ a b c d e f PGAニュース
- ^ 男子トーナメント年度別一覧表(1926年~1972年) | 日本プロゴルフ殿堂
- ^ 日本プロゴルフ新人選手権大会
- ^ a b c 中日クラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史
- ^ JGA 日本ゴルフ協会
- ^ 女子開幕戦6人プレーオフを制したコルダ。ほかの大人数プレーオフは?
- ^ “KATSUMATA LEADS IN JAPAN OPEN” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “11 Mar 1962, 12 - The Territorial Sun News and Views of the Marianas at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “THOMSON SET FOR CIRCUIT PRIZE” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ 倶楽部概要・歴史 – 高根カントリー倶楽部
- ^ “CHARLES'S 140 BEST IN PHILIPPINE OPEN” (英語). The New York Times. (1964年2月22日). ISSN 0362-4331 2021年12月10日閲覧。
- ^ “23 Feb 1964, 65 - The Boston Globe at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年12月8日閲覧。
- ^ “CHARLES SETS PACE IN MANILA WITH 211” (英語). The New York Times. (1964年2月23日). ISSN 0362-4331 2021年12月10日閲覧。
- ^ “24 Feb 1964, Page 13 - The Times at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “1 Mar 1964, Page 94 - The Sydney Morning Herald at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “Ishii wins Capitol”. The Straits Times (Singapore): p. 18. (2 March 1964) 7 March 2020閲覧。
- ^ “New Zealander Newdick leads by a stroke” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “14 Mar 1964, Page 11 - News-Press at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “9 Aug 1964, 10 - Hawaii Tribune-Herald at Newspapers.com” (英語). 2021年11月19日閲覧。
- ^ “8 Mar 1965, Page 23 - The Age at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “It's Newdick's Open” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “Thomson is leader” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “Thomson is leader” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “Thomson second by 3 strokes” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “Henning triumphs”. The Straits Times (Singapore): p. 20. (14 March 1966) 8 March 2020閲覧。
- ^ “17 Mar 1967, 65 - The Sacramento Bee at Newspapers.com” (英語). Newspapers.com. 2021年11月17日閲覧。
- ^ “Formosan Chi San in the lead” (英語). eresources.nlb.gov.sg. 2021年11月20日閲覧。
- ^ “Ishii wins by four strokes”. The Straits Times (Singapore): p. 20. (21 March 1967) 12 March 2020閲覧。
- ^ “Japanese wins golf”. The Canberra Times: pp. 10. (1970年3月30日) 2021年2月27日閲覧。
- ^ “Japan sweep in HK open”. The Straits Times (Singapore): p. 24. (30 March 1970) 19 March 2020閲覧。
- ^ “Japan sweep in HK open”. The Straits Times (Singapore): p. 24. (30 March 1970) 19 March 2020閲覧。
- ^ a b c 過去には「100万ドル」や「宇宙旅行」もあった! 世界の仰天“ホールインワン副賞物語”
- ^ 勝俣 功カツマタ イサオ ISAO KATSUMATA - PGA会員詳細 - 公益社団法人日本プロゴルフ協会
- ^ “Sport results and detail”. Canberra Times. (1990年9月2日) 2021年11月17日閲覧。
- ^ “Luckyshops.com”. www.luckyproshops.com. 2021年12月10日閲覧。
- ^ “Birdeebooking.com - birdeebooking”. birdeebooking.com. 2021年12月10日閲覧。
- ^ “Sawang Golf Course Hua Hin| Golf Course in Hua Hin, Thailand”. www.golfsavers.com. 2021年12月10日閲覧。
- ^ 【ご提案】コロナ検疫をゴルフ場で過ごす | 【公式】タイ国政府観光庁
- ^ サワンリゾートゴルフクラブ(ホアヒン) | GoGolf