新元鹿之助
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にいもと しかのすけ 新元 鹿之助 | |
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新元鹿之助 | |
生誕 |
明治3年8月25日 (1870年8月25日) 日本 薩摩国鹿児島郡 (現)鹿児島県鹿児島市 |
死没 |
昭和24年3月8日 (1949年3月8日(78歳没)) |
出身校 | 旧制第一高等学校、東京帝国大学 |
時代 | 明治、大正 |
著名な実績 | 技師として台湾各地の鉄道建設に貢献 |
活動拠点 | 台湾 |
肩書き |
台湾総督府鉄道部長 阿里山作業所技師など |
栄誉 |
勲四等瑞宝章 勲三等瑞宝章 勲二等瑞宝章 勲二等旭日重光章 |
新元 鹿之助(にいもと しかのすけ、1870年9月20日(明治3年8月25日[1][2])- 1949年(昭和24年)3月8日[2])は、日本の鉄道技師、土木技術者、歌人。台湾総督府鉄道部長。旧姓・福崎、号・松園[2]。
経歴
[編集]薩摩国鹿児島郡、のちの鹿児島県鹿児島市[2]で、福崎市兵衛の二男として生まれ、新元正兵衛の養子となる[3]。鹿児島高等中学造士館予科[4]、第一高等中学校本科[5]から1895年(明治28年)7月、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した[1][2]。 逓信省に入省して鉄道作業局技手に任官し、のち技師として福島県、静岡県などの保線事務所に勤務して鉄道建設、改良工事に従事した。1897年(明治30年)4月、台湾総督府に転じ、一貫して鉄道技師として台湾での鉄道改良、建設のため測量、建設、改良などに尽力した。1908年(明治41年)4月に台湾縦貫鉄道が全通したのちは[1][2]、台湾東部の1910年(明治43年)5月、花蓮港出張所長となり台東線を担当し、次いで阿里山作業所長として阿里山森林鉄道の建設に従事した[1][2]。営業課長、運輸課長を歴任し、1919年(大正8年)3月、台湾総督府鉄道部長に就任[1][2]した。そして1924年(大正13年)12月に鉄道部が交通局に組織変更されたのを機会に退官した[1][2]。 また、1912年(明治45年)3月に創立したジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)の育成にも尽力した[2]。晩年は和歌の創作に取り組み、帝国鉄道協会に「まがね会」を主宰し死去するまで短歌の指導に当たった[2][6]。
履歴
[編集]- 1895年(明治28年)
- 10月3日 逓信省鉄道技手に任命され福島出張所勤務となる。[7]
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 3月9日 総督から台湾縦貫鉄道線路踏査を命じられる。[14]
- 1899年(明治32年)
- 1903年(明治36年)3月19日 欧米各国に差遣わしを命ぜられ出張する。[20](6月27日出発 37年8月26日帰任)[21]
- 1904年(明治37年)8月27日 打狗出張所長を命ぜられる。[7]
- 1905年(明治38年)
- 11月18日 工務課長となる。兼任で工務課設計掛長事務取扱、営繕掛長事務取扱を命ぜられる。[7]
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 11月20日 工務課設計掛長事務取扱を免ぜられる。[7]
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 6月17日 阿里山作業所長の事務取扱を命ぜられる。[7][23]
- 7月2日 監督課長兼務を命じられる。[7]
- 1912年3月 ジャパン・ツーリストビューロー創立に際して理事に選任される。[2][24]
- 1913年(大正2年)
- 1915年(大正4年)2月27日 兼務の阿里山作業所技師を免ぜられる。[7][26]
- 大正6年10月19日 鉄道部現業員教習所長を命じられる。[7]
- 1919年(大正8年)3月10日 台湾総督府鉄道部長となる。[27]
- 1924年(大正13年)12月28日 鉄道部が交通局に再編された機会に退職する。[28]
栄典
[編集]位階
- 従七位 1896年(明治29年)6月30日[29]
- 正七位 1898年(明治31年)3月21日[30]
- 従六位 1900年(明治33年)2月10日[31]
- 正六位 1902年(明治35年)7月16日[32]
- 従五位 1904年(明治37年)11月30日[33]
- 正五位 1909年(明治42年)7月20日[34]
- 従四位 1914年(大正3年)8月20日[35]
- 正四位 1919年(大正8年)9月10日[36]
- 従三位 1924年(大正13年)12月1日[37]
- 正三位 1925年(大正14年)1月22日[38]
勲等
- 勲四等瑞宝章 1907年(明治40年)4月1日[39]
- 勲三等瑞宝章 1911年(明治44年)12月26日[40]
- 勲二等瑞宝章 1919年(大正8年)12月25日[41]
- 勲二等旭日重光章 1925年(大正14年)8月3日[42]
褒賞
著作
[編集]- 「北海道視察談」『帝国鉄道協会会報』第17巻 帝国鉄道協会、1915年。
- 編『松園社歌集 初篇』新元鹿之助、1941年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『近代日本土木人物事典』145頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『鉄道先人録』266-267頁。
- ^ a b c 『人事興信録 4版 大正4年 新元鹿之助』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『第七高等学校造士館一覧 自昭和14年4月至昭和15年3月』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、122頁。
- ^ 『第一高等学校一覧 明治24-26年』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、99頁。
- ^ 日本交通協会誌 汎交通 49巻8号(昭和24年8月号)49頁には新元の辞世の歌が掲載されている
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「「功績功績調書」『元台湾総督府鉄道部技師新元鹿之助勲章加授ノ件』」 アジア歴史資料センター Ref.A10113009300
- ^ 官報第3901号
- ^ 「技師新元鹿之助外五名鐵道掛技術監督命免」『臺灣總督府公文類纂;明治三十年;乙種永久保存』國史館臺灣文献館(台湾)
- ^ 台湾総督府報第106号
- ^ 台湾総督府府報第111号
- ^ 台湾総督府報第194号
- ^ 民政局通信課勤務となる。台湾総督府報第194号
- ^ 『台湾鉄道史・上 1910年 176頁』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 台湾総督府報第527号
- ^ a b 『台湾鉄道史・上 1910年 210頁』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「參事官遠藤□太郎外一名鐵道掛長命免」『明治三十二年臺灣總督府公文類纂永久保存』國史館臺灣文献館(台湾)
- ^ 『台湾鉄道史・上 1910年 333頁』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 台湾総督府報第640号
- ^ 台湾総督府報第1314号
- ^ 台湾総督府報1314号)。
- ^ 台湾総督府報第3008号
- ^ 台湾総督府報3271号
- ^ 国立国会図書館書誌ID:000001041231『五十年史:1912-1962』交通公社、1962年 13頁
- ^ 台湾総督府報第188号
- ^ 台湾総督府報第697号
- ^ 台湾総督府報第1779号
- ^ 台湾総督府報3413号
- ^ 官報3901号
- ^ 台湾総督府報271号
- ^ 台湾総督府報699号
- ^ 台湾総督府報1193号
- ^ 台湾総督府報1650号
- ^ 台湾総督府報2755号
- ^ 台湾総督府報573号
- ^ 官報2132号
- ^ 台湾総督府報3396号
- ^ 台湾総督府報3440号
- ^ 台湾総督府報2268号
- ^ 台湾総督府報3410号
- ^ 台湾総督府報2006号
- ^ 台湾総督府報3583号
- ^ 台湾総督府報第584号
- ^ 『人事興信録 4版 大正4年 田健治郎』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『人事興信録 4版 大正4年 山崎四男六』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 高橋裕、藤井肇男共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。
- 日本交通協会鉄道先人録編集部編『鉄道先人録』日本停車場株式会社出版事業部、1972年。
- 人事興信所編『人事興信録』4版、人事興信所、1915年。