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新報 (インドネシア)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新報』(しんぽう、中国語: 新报拼音: Xīn bào)、ないし、『シン・ポー』(Sin Po)は、オランダ領東インド、後のインドネシアで発行されていたプラナカン(海峡華人)のマレー語による新聞。読者はおもに中国系インドネシア人英語版であった。

沿革

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『新報』は、バタビア(後のジャカルタ)で1910年10月に週刊紙として創刊された[1]。この新聞は、新聞発行を思い立った劉玉蘭英語版が、游新義 (Yoe Sin Gie) に働きかけたことをきっかけに創刊された。当初は劉が編集を担い、游が経営面を取り仕切っていた[2]。初代の社主は侯徳広 (Hauw Tek Kong) であった。当初は、ヨーロッパ人のJ・R・ラズー・クー (J. R. Razoux Kuhr) が編集長に据えられていたが、これは当時のヨーロッパ人が法的に優位な立場にあったことを踏まえて、マレー語の新聞が一般的におこなっていた措置だった[2]

この新聞はすぐさま大きな成功を収めた。2年後、『新報』は日刊紙となった[3]

この新聞が、編集長をラズー・クーから郭恒節英語版に交代させたのは1916年になってからであった。1917年の時点では、この新聞は極端な中国ナショナリズム路線をとっていた。プラナカンが運営する新聞であったにもかかわらず、論調は北京政府寄り、トトック英語版とされた華人寄りの立場をとり、オランダの諸侯民地支配下におけるカピタン・チナ英語版(華人カピタン)制度を痛烈に批判した[4]。歴史家のレオ・スリャディナタ英語版は、『新報』が地域的な一つのグループを牽引するようになっていったと指摘して、これを「新報グループ」と称した。彼によれば、このグループは、プラナカントトックの統一、プラナカンへの中国語の教育、地域の政治へは関与しないことを信念としていたという[5]

1920年からは中国語版も刊行され、1922年以降はスラバヤ東ジャワ版も出された。

1920年代後半、インドネシア・ナショナリズム運動が勢いを増すと、『新報』は中国寄りの姿勢を和らげ、インドネシア人の観点に同調するようになっていった[4]スマランの『ジャワ・テンガ (Djawa Tengah)』の論調が、よりインドネシア志向を強めていくのに合わせたように「新報グループ」も方向を転換していった。プラナカンは中国に「帰国」して働き、あるいは学ぶべきだと唱えていた「新報グループ」のメンバーたちの多くも、そのようなキャンペーンは取りやめた[5]

インドネシア・ラヤ」の楽譜を掲載した、1928年11月10日付の『新報』の紙面。

後にインドネシア国歌となった「インドネシア・ラヤ」を作詞作曲したルドルフ・スプラットマンは、『新報』で記者として働いていた[6]1928年10月28日、ワゲはこの曲を第2回インドネシア青年会議の席でバイオリンを弾きながら披露した[6]。この曲はすぐに評判となり、『新報』は11月10日付の紙面にその楽譜を掲載し、また「青年の誓い」以降、オランダ領東インドを意味する「Hindia Belanda」に代えて「インドネシア (Indonesia)」という表現を使った最初の新聞であった[7]

漫画『プット・オン (Put On)』は、1931年からこの新聞で連載が始まったが、作者のコ・ワン・ギインドネシア語版は、その前年から作品をこの新聞に掲載していた[8]

1930年代後半、『新報』はキャンペーンの方向を変え、中国系インドネシア人読者たちに、中国のための募金や、反日メッセージの伝達を働きかけるようになった。1937年から1942年にかけて、抗日戦争を戦う中国のために、この新聞は170万ギルダーの募金を集めた[5]

1942年日本がインドネシアを占領すると、『新報』は休刊したが、1946年には復刊した。インドネシア独立の後も刊行を続けたが、1958年に政府の規制によって紙名の変更を余儀なくされた。それによって『パンジャワルタ (Pantjawarta)』となり、さらに『ワルタ・バクティ (Warta Bhakti)』と改名を重ねた。当時のこの新聞は、インドネシア共産党支持の路線をとっていたため、1965年9月30日事件後の弾圧によって潰された。

脚注

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  1. ^ "Pers Tionghoa, Sensibilitas Budaya, dan Pamali Politik", KOMPAS, 1 Juni 2001
  2. ^ a b Sin Po Jubileum Nummer 1910–1935 (Djakarta: Sin Po, 1935).
  3. ^ "Seabad Pers Jawa Barat", Pikiran Rakyat, 8 Februari 2006
  4. ^ a b Hartanto, Agung Dwi; et al. (2007). Seabad pers kebangsaan: 1907–2007. Yogyakarta: I:BOEKOE. pp. [要ページ番号] 
  5. ^ a b c Suryadinata, Leo (1981). Peranakan Chinese Politics in Java, 1917–1942.. Singapore University Press. pp. [要ページ番号] 
  6. ^ a b 世界大百科事典 第2版『スプラトマン』 - コトバンク
  7. ^ "Bung Karno dan Etnis Tionghoa", diakses 15 Februari 2006
  8. ^ Agus Dernawan T. (2019年2月6日). “Kho Wan Gie and Goei Kwat Siong Chinese-Indonesian artists behind legendary comic strips”. The Jakarta Post. 2019年2月14日閲覧。