新庄直彪
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保10年(1839年) |
死没 | 慶応元年7月4日(1865年8月24日) |
改名 | 亀次郎(幼名)、直彪 |
戒名 | 紹慶院殿徳栄宗隆大居士 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の吉祥寺 |
官位 | 従五位下、駿河守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 常陸国麻生藩主 |
氏族 | 新庄氏 |
父母 | 父:新庄直計 |
妻 | 正室:松平康爵の養女(叔父新庄直行の娘) |
子 | 直𩑛 |
新庄 直彪(しんじょう なおとら)は、常陸麻生藩の第13代藩主。
生涯
[編集]天保10年(1839年)、第12代藩主・新庄直計の五男として江戸で生まれる。4人の兄が早世したために世子となり、弘化2年(1845年)の父の死去により家督を継ぐ。
藩政においては、藩主就任直後に「御代替につき御条目」を制定して藩士・領民の風紀粛正を図った。嘉永元年(1848年)に鉄砲稽古場を築造して文武を奨励し、人材を取り立てるなどしている。嘉永3年(1850年)に江戸幕府に対して海防警備を提言する。嘉永4年(1851年)には学問所を開設し、8歳以上の男子の強制入学や30歳までの学問奨励などを義務付けた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航では、幕府に対して開国拒否論を提言する。安政2年(1855年)12月16日、従五位下・駿河守に叙位・任官する。安政5年(1858年)5月に大火による大被害を受けた。元治元年(1864年)、天狗党の乱で水戸藩の抗争を鎮圧する功績を挙げた。
慶応元年(1865年)7月4日に急死する。享年27。跡を長男・直𩑛が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 新庄直計(父)
正室
子女
- 新庄直𩑛(長男)生母は正室