大慶寺 (鎌倉市)
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大慶寺 | |
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本堂 | |
所在地 |
神奈川県鎌倉市寺分1-5-8 |
位置 | 北緯35度19分58.2秒 東経139度31分17.1秒 / 北緯35.332833度 東経139.521417度座標: 北緯35度19分58.2秒 東経139度31分17.1秒 / 北緯35.332833度 東経139.521417度 |
山号 | 霊照山[1] |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 弘安年間(1278年~1287年) |
開山 | 大休正念[1] |
開基 | 長井光禄大夫 |
文化財 | 本項に記載 |
法人番号 | 9021005001931 |
大慶寺(たいけいじ)は、神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山、本尊は釈迦如来。
歴史
[編集]創建は弘安年間(1278年~1287年)と伝わる。創建当時は現在より南東(梶原1丁目、現鎌倉市立深沢中学校付近)にあった。創建後、無象静照、秋澗道泉などが住持となった。
1356年(延文元年)傑翁是英が、大慶寺開山塔方外庵の塔主となり、1357年(延文2年)8月7日大慶寺住持となる。この頃には、関東準十刹に列せられていた。
1386年(至徳元年)十刹の位次改訂で、関東十刹に列せられた。鎌倉幕府・室町幕府による禅宗保護の政策により発展し、方外庵、指月庵、覚華庵、天台庵、大堂庵、本光庵などの塔頭があり、薬師堂や地蔵堂もあり、深沢周辺に広大な寺域をもった。大慶寺周辺一帯は「寺分」という地名だが、これは「大慶寺の寺域」に由来する地名で[2]、往時の広さを推測できる。
1512年(永正9年)には北条早雲の軍勢に寺が焼き払われた。
1513年(永正10年)には仏殿、総門が風で倒れるなどして荒廃した。
1549年(天文18年)奇文禅才が住持となり、復興に尽力した。
1560年(永禄3年)から1561年(永禄4年)にかけ上杉謙信の鎌倉侵攻(小田原城の戦い)の影響をうけ、本尊はじめ諸像を円覚寺に退避させるなど、戦乱の影響によって次第に衰退していった。
1841年(天保12年)に成立した『新編相模国風土記稿』には「大慶廃寺」との記載があり[1]、江戸時代後期には廃絶していたと推測される。
1943年(昭和19年)に大慶寺の塔頭だった「方外庵」を大慶寺に改称し、現在に至っている。
寺宝
[編集]市指定重要文化財
[編集]市天然記念物
[編集]そのほか
[編集]- 大慶寺開山大休正念木像
- 方外庵開山秋澗道泉木像
- 前住職鎌田茂雄の墓
本尊について
[編集]本尊の木造釈迦如来坐像は二代目で1567年(永禄10年)に仏師快円が作ったものである。先代の本尊は北条早雲の焼き討ちにより頭部以外を失い、その後胴体を修復した上で円覚寺に退避させたものの、1563年(永禄6年)に円覚寺の火災により焼失した。
アクセス
[編集]湘南モノレール「湘南深沢駅」より、徒歩約5分
脚注
[編集]- ^ a b c 新編相模国風土記稿 寺分村 大慶寺蹟.
- ^ 新編相模国風土記稿 寺分村.
- ^ “鎌倉市指定文化財一覧表(彫刻)”. 鎌倉市文化財部文化財課 (2020年10月26日). 2020年11月23日閲覧。
- ^ “鎌倉市指定文化財一覧表(建造物)”. 鎌倉市文化財部文化財課 (2020年10月26日). 2020年11月23日閲覧。
- ^ “鎌倉市指定文化財一覧表(天然記念物)”. 鎌倉市文化財部文化財課 (2020年10月26日). 2020年11月23日閲覧。
参考文献
[編集]- かまくら子ども風土記 鎌倉市教育センター
- 鎌倉古社寺辞典 吉川弘文館 ISBN 9784642080606
- 鎌倉の寺社122を歩く PHP新書 ISBN 9784569810355
- 鎌倉観光文化検定公式テキストブック かまくら春秋社 ISBN 9784774005386
- 竹貫元勝「鎌倉の禅寺散歩」慶友社、2001年 ISBN 4-87449-230-4
- 「深澤庄 寺分村」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/89。
- 「深澤庄 寺分村 大慶寺蹟」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之105村里部鎌倉郡巻之37、雄山閣、1932年8月。NDLJP:1179240/90。