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無象静照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
無象静照
文暦元年 - 嘉元4年5月15日
1234年 - 1306年6月26日
諡号 法海禅師[1]
生地 相模国[1]
没地 鎌倉浄智寺
宗旨 臨済宗
石渓心月
弟子 大林善育梅峰徳英[2]
著作 『興禅記』[1]
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虚堂智愚が「日本照禅者」(無象静照とされる)に与えた偈頌(通称・破れ虚堂)

無象静照(むぞう じょうしょう)は、鎌倉時代臨済宗禅僧。法海派の開祖。北条得宗家や鎌倉の聖・俗界と南宋禅林を繋ぐキ-パースンとして活動した。北条時頼の近親で東福寺円爾に学び、1252~65年に入宋して高僧石渓心月・虚堂智愚に随侍し、渡来僧の蘭渓道隆・大休正念・無学祖元と親交を結んだ[3]

経歴・人物

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鎌倉に誕生。北条時頼の近親者。はじめ東福寺円爾に師事。円爾の推薦状を携え建長4年(1252年)に渡し、径山にのぼり、石渓心月に参じて、その法を嗣ぐ。その後育王山の知客となり虚堂知愚に隋侍する。

文永2年(1265年)、在宋14年にして帰朝。鎌倉建長寺蘭渓道隆の会下に連なる。山城の仏心寺の開山となる。鎌倉に龍華山真際精舎を創建、相州胡桃谷法源寺に住する。建治3年(1277年)、博多聖福寺に晋山。このころ常陸に興禅寺開創。鎌倉に戻り、真際庵に居す。北条師時、大休正念[4]を開山として鎌倉に浄智寺を開き、真際庵は移転してその本庵となる。無象は真際庵の跡地に鎌倉大慶寺を開く。弘安年間(1278-88年)の初め、北条時宗は無象を請じ、石渓を勧請開山として武蔵国に正福寺を開く。正応2年(1289年)、丹波の宝林寺の開山となる。正応3年(1290年)、京都仏心寺に入る。正安元年(1299年)、相模大慶寺にいるとき、北条貞時に招かれ、鎌倉浄智寺の住持となる。北条貞時は浄智寺を五山に列した。

嘉元4年5月15日1306年6月26日)、浄智寺真際庵で入寂。無学祖元の伝記史料「仏光禅師行状」を撰述するなど、入宋中に知りあった無学祖元とは、無学が来日して寂するまで非常に親しい関係にあった。

脚注

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  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『無象静照』 - コトバンク
  2. ^ 人名規範資料庫
  3. ^ 村井章介「鎌倉北条氏と南宋禅林 渡海僧無象静照をめぐる人びと」参照。
  4. ^ 文永6年(1269年)、幕府の執権北条時宗の招聘により無象の手引きで兄弟子の大休正念が来朝し、大休は北条時宗・宗政兄弟の帰依を受けた。

参考文献

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  • 葉貫磨哉「武蔵村山正福寺濫觴考 北条氏と無象静照との関連において」『日本歴史』339(吉川弘文館、1976年)→『中世禅林成立史の研究』(吉川弘文館、1993年)
  • 村井章介「鎌倉北条氏と南宋禅林 渡海僧無象静照をめぐる人びと」『交錯する宗教と民族 交流と衝突の比較史 アジア遊学257』(勉誠社、2021年)