日置村 (鹿児島県)
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ひおきむら 日置村 | |
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廃止日 | 1955年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 日置村、吉利村 → 日吉町 |
現在の自治体 | 日置市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 鹿児島県 |
郡 | 日置郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
9,672人 (国勢調査[1]、1950年10月1日) |
隣接自治体 | 下伊集院村、伊集院町、吉利村 |
日置村役場 | |
所在地 | 鹿児島県日置郡日置村大字日置503番地[2] |
1950年現在の地図 | |
ウィキプロジェクト |
日置村(ひおきむら)は、鹿児島県日置郡にあった村。現在の日置市の一部。
地理
[編集]大川の中流域に位置しており、西部には東シナ海に面しており吹上浜が広がる[3]。
大字
[編集]日置村の大字は日置、山田の2大字が置かれており、現在の日置市日吉町日置、日吉町山田にあたる。
歴史
[編集]1889年(明治22年)4月1日には町村制が施行されたのに伴い、日置郷を構成していた日置村と山田村の区域を以て日置郡日置村が設置された[4]。日置村役場は大字日置に置かれた[5]。
第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)3月18日には日置村に対してアメリカ軍の空襲が行われ[6]、南薩鉄道上日置駅に停車中であった通学通勤時間中の列車に対して機銃掃射が行われ、3名(学生2名、車掌)が死亡したほか、多数の負傷者が出た[7]。
1953年(昭和28年)に公布された町村合併促進法によって、狭小な町村の合併が促進されることとなり、面積が狭く人口が8,000人以下の町村は合併すべき規模とされた[8]。直近に実施された1950年(昭和25年)の国勢調査では日置村(大字日置、大字山田)の人口は9,672人であった[1]。当初の構想では日置村と吉利村、永吉村の一部の合併が理想的であると鹿児島県地方課も考えていたとみられるが、永吉村は伊作町と合併することとなったため、日置村は吉利村との対等合併の形を取ることとなった[9]。1955年(昭和30年)2月9日に日置村議会において合併に関する議決を全会一致で可決し、合併申請書が提出された[10]。
1955年(昭和30年)4月1日に日置村が吉利村と新設合併したことにより日置郡日吉町が成立し、それに伴い日置村は廃止された[9]。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、日置郡日置村、山田村が合併して村制施行し、日置村が発足[4][5]。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 日置郡吉利村と合併して日吉町を新設し廃止された[9]。
交通
[編集]鉄道
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “国勢調査 / 昭和25年国勢調査 / 人口総数”. 総務省統計局. 2020年9月20日閲覧。
- ^ 鹿児島県総務部参事室 1967, p. 553.
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 531.
- ^ a b 日吉町郷土誌編さん委員会 1988, p. 44.
- ^ a b 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 531-532.
- ^ 日吉町郷土誌編さん委員会 1988, p. 136.
- ^ 日吉町郷土誌編さん委員会 1988, p. 138.
- ^ 日吉町郷土誌編さん委員会 1988, p. 51.
- ^ a b c 日吉町郷土誌編さん委員会 1988, p. 52.
- ^ 鹿児島県総務部参事室 1967, p. 552.
参考文献
[編集]- 日吉町郷土誌編さん委員会『日吉町郷土誌 上巻』日吉町長 野元春男、1983年。
- 日吉町郷土誌編さん委員会『日吉町郷土誌 下巻』日吉町長 野元春男、1988年。
- 鹿児島県総務部参事室『鹿児島県市町村変遷史』鹿児島県、1967年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店、1983年。ISBN 978-4040014609。
関連項目
[編集]- 日置村(曖昧さ回避ページ)
- 鹿児島県の廃止市町村一覧