日輪舎
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日輪舎(にちりんしゃ)はかつて岐阜県各務原市に存在した施設。川崎造船所(現:川崎重工)少年院修練道場や、各務原少年訓練所、岐阜少年院などに使用され、円形の建物が特徴であった。
概要
[編集]各務山の山麓(現在の各務原市各務山ノ前町1丁目附近の各務原スポーツ広場)に所在した。この地域は、高山本線の各務ケ原駅から近く交通の便がよいこと、川崎造船所工場や軍の基地(各務原飛行場)からも近いことから、はじめは結核の診療所をつくる計画が持ち上がっていたが、地域住民からの反対があり、中止となった。しかしその後、川崎造船所が少年修練道場として日輪舎をつくる話が具体化し、1943年(昭和18年)に完成した。この日輪舎は13棟あり、川崎造船の少年修練道場や、朝鮮人の宿泊施設、各務原少年訓練所として使われていた。1949年に法務府によって買収され、瀬戸少年院の分院「各務農芸学院」となる。1952年には独立した岐阜少年院となったが、日輪舎の建造物は1955年頃から解体されて姿を消した。
跡地は各務原スポーツ広場となっている。
建物の構造
[編集]円形の建屋の直径は12 - 13m、高さ6 - 7m、屋根は二層の杉板のトントン吹きで約2mの間口は突出しており、そこが出入り口であった。また、一棟で約20人収容できた。
内部は、中央が土間で石を組んだ炉が作られており、炊飯と冬の暖房ができるようになっていた。土間の周辺は約2mの板縁が円形に作られ、上下二段で宿泊できるように工夫されていた。上段に上る梯子があり、廊下の部分は区切られ、採光窓があり通風も兼ねていたが、それでも内部は薄暗く、生活環境は良いものではなかった。
軍隊が掘った深さ42mの井戸があり、底に水中ポンプが設置され、水量も豊富で渇水することはなかった。
地元在住者の証言
[編集]日輪舎は川崎造船の少年修練道場でしたので、当時、青年部長をしていた私は、仲間の工員を連れて一泊の夜間講習会をよく利用しました。会社の一日の仕事が終わってから、仲間と隊列を組み、軍歌を歌いながら徒歩で日輪舎まで行きました。そこで川崎造船少年修練道場の先生から講義を聞いて、夜は宿泊でした。終戦後、日輪舎は在日朝鮮人の一時収容所として使われました。日本に強制連行された中部・北陸・関東地方の朝鮮人が、列車や船の手配ができるまで、朝鮮人連盟の世話で一時期を日輪舎で過ごしましたことを私はよく覚えております。(74歳、男性) — 『各務原市民の戦時体験』p.64
参考文献
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- 各務原市(編著)『各務原市民の戦時体験』各務原市、1996年
- 岐阜少年院『岐阜少年院史』岐阜少年院、1985年
関連項目
[編集]- 日輪兵舎 - 円形建築の元になった、茨城県にあった施設。