日野政重
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永7年11月30日(1631年1月2日) |
別名 | 通称:勘右衛門尉→九郎右衛門尉 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 清和源氏新田氏流日野氏 |
父母 | 父:日野景幸、母:杉原盛重の娘 |
兄弟 | 元重、清八、五郎介、政重、女(三刀屋孝和室)、女(鷲見半四郎室)、女(阿波国商人の妻)、勝三郎、左助、九郎、女(光永庄左衛門室、大村弥兵衛室) |
子 | 就正 |
日野 政重(ひの まさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏、毛利氏家臣で長州藩士。父は日野景幸。兄に日野元重。
生涯
[編集]元和7年(1621年)2月1日には毛利輝元から「九郎右衛門尉」の官途名を与えられた。元和9年(1623年)に父・景幸が死去し、元和10年(1624年)1月11日に景幸に与えられていた1000石の知行が兄・元重に与えられ、元重に与えられていた長門国美祢郡伊佐郷の内の200石が政重に与えられた。また、佐々部若狭守と共に輝元の奏者番を務めた[1]。
寛永7年(1630年)11月30日に死去。嫡男の就正が後を継いだ。