日野西光善
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日野西光善 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永2年12月17日[1](1850年1月29日) |
死没 | 大正12年(1923年)1月10日[1][2] |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 萩原家→日野西家 |
父母 | 父:萩原員光、養父:日野西延栄 |
兄弟 | 光善、萩原員種、萩原員信、萩原員拾、昭子 |
妻 |
先室:堀河賀子(堀河親賀の長女) 後室:粟田口親子(粟田口定孝の長女) |
子 | 資博、範子、薫子 |
日野西 光善(ひのにし みつよし)は、幕末の公家、明治期の神職・政治家。貴族院子爵議員。日野西家15代当主。
経歴
[編集]山城国京都で刑部卿・萩原員光の長男として生まれ、日野西延栄の養子となる[1][注 1]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。
文久3年1月5日(1863年2月22日)従五位下に叙せられ、同年2月7日(3月25日)元服して昇殿を許され越後権介に任じられた[4][5]。兼皇太后宮少進、少教正を務め、1873年(明治6年)9月8日、兼任白峯宮宮司に就任[4][5][6]。以後、兼豊国神社宮司・三敢國神社宮司、兼梨木神社宮司[7]、兼四條畷神社宮司を務め、1890年(明治23年)7月1日、全宮司職を依願退職[2][5][8][9]。
1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、1897年(明治30年)7月10日まで一期在任した[2]。1896年(明治29年)皇典講究所幹事長に就任[5]。1905年(明治38年)平安神宮宮司に転じ、1914年(大正3年)厳島神社宮司に発令されたが高齢のため辞職した[5]。
系譜
[編集]- 父:萩原員光
- 母:不詳
- 養父:日野西延栄
- 先妻:日野西賀子(よしこ、堀河親賀長女)[1]
- 後妻:日野西親子(粟田口定孝長女)[1]
- 二男:日野西資博(1870年生。子爵・宮中顧問官)[1][8]
- 三男:日野西長輝(1875年生。北海道、朝鮮で農場経営。子に村井資長)[10][11]
- 四女:桜井範子(つねこ、桜井小太郎夫人)[1]
- 五女:村井薫子(かおるこ、1879年生。宮中女官を経て村井吉兵衛後妻)[1]
- 八女:日野西徳宝(1890年生、善光寺大本願副住職、尼衆学校第2代校長)[12]
- 庶子:一男三女[10]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録』第6版、ひ3頁では、日野西延栄の長子。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 霞会館 1996, p. 411–413.
- ^ a b c 衆議院 & 参議院 1990, p. 52.
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ a b 『日野西家譜』
- ^ a b c d e 『神道人名辞典』249-250頁。
- ^ 『人事興信録』〔初版〕、1091頁。
- ^ 『官報』第1139号、明治20年4月20日。
- ^ a b 『人事興信録』第6版、ひ3頁。
- ^ 『官報』第2101号、1890年7月2日。
- ^ a b 日野西光善 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 村井資長, 「私の履歴書(1)」『体育・スポーツ・レクリエーション』 1977年 4巻 1号 p.22-25, 全国大学体育連合, doi:10.20723/psr.4.1_22
- ^ “日野西徳宝 - 新纂浄土宗大辞典”. web版 新纂浄土宗大辞典. 2024年10月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日野西家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 人事興信所編『人事興信録』〔初版〕、1903年。
- 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。
- 『神道人名辞典』神社新報社、1986年。
- 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』 下、吉川弘文館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 日野西家初代 1884年 - 1923年 |
次代 日野西資博 |