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日野西光善

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
日野西光善
日野西光善
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 嘉永2年12月17日[1]1850年1月29日
死没 大正12年(1923年1月10日[1][2]
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 萩原家日野西家
父母 父:萩原員光、養父:日野西延栄
兄弟 光善萩原員種萩原員信萩原員拾、昭子
先室:堀河賀子(堀河親賀の長女)
後室:粟田口親子(粟田口定孝の長女)
資博、範子、薫子
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大正天皇即位大礼の典儀官時の日野西光善(1915年)

日野西 光善(ひのにし みつよし)は、幕末公家、明治期の神職政治家貴族院子爵議員日野西家15代当主。

経歴

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山城国京都刑部卿萩原員光の長男として生まれ、日野西延栄の養子となる[1][注 1]1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]

文久3年1月5日1863年2月22日)従五位下に叙せられ、同年2月7日3月25日)元服して昇殿を許され越後権介に任じられた[4][5]。兼皇太后宮少進、少教正を務め、1873年(明治6年)9月8日、兼任白峯宮宮司に就任[4][5][6]。以後、兼豊国神社宮司・三敢國神社宮司、兼梨木神社宮司[7]、兼四條畷神社宮司を務め、1890年(明治23年)7月1日、全宮司職を依願退職[2][5][8][9]

1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、1897年(明治30年)7月10日まで一期在任した[2]1896年(明治29年)皇典講究所幹事長に就任[5]1905年(明治38年)平安神宮宮司に転じ、1914年(大正3年)厳島神社宮司に発令されたが高齢のため辞職した[5]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『人事興信録』第6版、ひ3頁では、日野西延栄の長子。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 霞会館 1996, p. 411–413.
  2. ^ a b c 衆議院 & 参議院 1990, p. 52.
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ a b 『日野西家譜』
  5. ^ a b c d e 『神道人名辞典』249-250頁。
  6. ^ 『人事興信録』〔初版〕、1091頁。
  7. ^ 『官報』第1139号、明治20年4月20日。
  8. ^ a b 『人事興信録』第6版、ひ3頁。
  9. ^ 『官報』第2101号、1890年7月2日。
  10. ^ a b 日野西光善 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  11. ^ 村井資長, 「私の履歴書(1)」『体育・スポーツ・レクリエーション』 1977年 4巻 1号 p.22-25, 全国大学体育連合, doi:10.20723/psr.4.1_22
  12. ^ 日野西徳宝 - 新纂浄土宗大辞典”. web版 新纂浄土宗大辞典. 2024年10月13日閲覧。

参考文献

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  • 『日野西家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
  • 人事興信所編『人事興信録』〔初版〕、1903年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第6版、1921年。
  • 『神道人名辞典』神社新報社、1986年。
  • 衆議院; 参議院 編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』 下、吉川弘文館、1996年。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
日野西家初代
1884年 - 1923年
次代
日野西資博