高階幸造
時代 | 江戸時代末期 - 大正時代 |
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生誕 | 1864年 |
死没 | 1921年1月19日 |
墓所 | 兵庫県豊岡市野上 |
官位 | 正五位 |
勲章 | 勲六等瑞宝章 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇→大正天皇 |
氏族 | 高階家 |
父母 | 父:高階成章 |
配偶者 | 高階鶴野 |
子供 | 研一 |
親戚 | 高階成章(孫、橿原神宮権宮司) |
奉職神社 |
四條畷神社(1901年 - 1902年) 伊和神社(1902年 - 1903年) 廣田神社(1903年 - 1921年) |
高階 幸造(たかしな こうぞう、元治元年〈1864年〉8月 - 大正10年〈1921年〉1月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の神職。
四條畷神社宮司、伊和神社宮司、廣田神社宮司を歴任した[1]ほか、草創期の全国神職会運営に携わり、「神社界の重鎮」と称されている[2]。
生涯
[編集]元治元年(1864年)8月、但馬国豊岡町(現在の兵庫県豊岡市)に、豊岡藩士高階成章の三男として生まれた[1][3]。
明治13年(1880年)、郷里の村社金刀比羅神社に奉職[1][2]。
明治21年(1888年)、兵庫県皇典講究所理事兼教授となり、分所新築事業を担当し、これが明治31年(1898年)に竣工すると皇典講究所副総裁久我建通より『古史徴』一部を贈られた[1]。また全国神職会の創立に関与して、同会総務委員幹事となった[1][3]。
明治34年(1901年)4月12日、四條畷神社宮司に就任[4]。明治35年(1902年)1月29日、伊和神社宮司に転じた[5]。翌明治36年(1903年)6月18日、六給俸の下賜を受けた[6]。
明治36年(1903年)11月11日、廣田神社宮司に転任し[1][7]、同日付で四級俸の下賜を受けた[8]。俸給については、3年後の明治39年(1906年)7月5日には三級俸の下賜[9]、2年後の明治41年(1908年)4月1日には五級俸の下賜[10]、明治44年(1911年)8月22日には三級俸に変更されている[11]。改元後には大正2年(1913年)12月26日に二級俸に昇給するも[12]、大正7年(1918年)5月1日に四級俸下賜に下がり[13]、翌大正8年(1919年)7月31日に三級俸下賜に復した[14]。
廣田神社宮司就任後、兵庫県神職督務所長に推され、明治43年(1910年)、三府二十八県神職会より斯道尽瘁の表彰を受けた[1]。
大正2年(1913年)10月14日、財団法人兵庫県皇典講究分所が設立されると、兵庫県内務部長小島源三郎・海神社宮司上月為蔭・西宮神社宮司吉井良晃と共にその理事として名を連ねた[15]。任期満了の後も上月為蔭[注釈 1]・吉井良晃と共に理事に重任した[16]。
大正10年(1921年)1月19日、58歳で、病により帰幽した[1][17][注釈 2]。没日付にて特旨を以て位階を一級進めて正五位に叙せられ[18]、二級俸を下賜された[19]。氏子葬が執り行われ、城崎郡田鶴野村野上(現在の豊岡市野上)に葬られた[20]。
栄典
[編集]位階
[編集]- 年月日不明 - 叙従七位
- 明治36年(1903年)12月25日、叙従六位[21]
- 明治42年(1909年) 2月22日、叙正六位[22]
- 大正 5年(1916年) 5月 1日、叙従五位[23]
- 大正10年(1921年) 1月19日、叙正五位[24]
勲等
[編集]著作
[編集]単著
[編集]- 『神皇事蹟』兵庫県皇典講究分所、1900年12月3日。doi:10.11501/815665。
- 『祭文私稿』大阪国文社、1901年11月10日。doi:10.11501/815395。
- 『広田神社誌』。
編著
[編集]- 『通例祭典式』兵庫県皇典講究分所、1894年8月25日。doi:10.11501/815810。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 『神道人名辞典』, p. 184, 「高階幸造」.
- ^ a b 『戦後神道界の羣像』, p. 66, 「高階研一」.
- ^ a b c 『大日本人名辞書』下巻, p. 1480, 「高階幸造」.
- ^ 『官報』第5330号, p. 31, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第5571号, p. 2, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第5988号, p. 2, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第6110号, p. 2, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第6111号, p. 1, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第6905号, p. 3, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第7427号, p. 7, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第8453号, p. 8, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第426号, p. 9, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第1722号, p. 4, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第2098号, p. 5, 叙任及辞令.
- ^ 『官報』第448号, p. 27, 「広告(法人登記)」.
- ^ 『官報』第1639号, p. 5, 「広告:法人登記」.
- ^ 『官報』第2569号, p. 8, 「彙報(官庁事項):神職卒去」.
- ^ 『官報』第2542号, pp. 5–7, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第2543号, p. 10, 「叙任及辞令」.
- ^ 『大日本人名辞書』下巻, p. 1481, 「高階幸造」.
- ^ 『官報』第6147号, p. 9, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第7694号, p. 5, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第1123号, p. 2, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第2542号, p. 5, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第7956号, p. 23, 「叙任及辞令」.
- ^ 『大衆人事録』第三版, p. た七四.
- ^ 『神道人名辞典』, p. 484, 「高階研一」.
参考文献
[編集]- 『大日本人名辞書』下巻、大日本人名辞書刊行会編(新版)、大日本人名辞書刊行会、1926年。doi:10.11501/969144。
- 『大衆人事録』帝国秘密探偵社編(第三版)、帝国秘密探偵社、1930年。doi:10.11501/3044845。
- 『神道人名辞典』神社新報社編、神社新報社、1986年7月8日。
- 『戦後神道界の羣像』神社新報社編、神社新報社、2016年7月8日。
官報
[編集]- 『官報』第5330号、1901年4月13日。
- 『官報』第5571号、1902年2月1日。
- 『官報』第5988号、1903年6月19日。
- 『官報』第6110号、1903年11月12日。
- 『官報』第6111号、1903年11月13日。
- 『官報』第6147号、1903年12月26日。
- 『官報』第6905号、1906年7月6日。
- 『官報』第7427号、1908年4月2日。
- 『官報』第7694号、1909年2月22日。
- 『官報』第7956号、1909年12月29日。
- 『官報』第8453号、1911年8月24日。
- 『官報』第426号、1913年12月27日。
- 『官報』第448号、1914年1月28日。
- 『官報』第1123号、1916年5月2日。
- 『官報』第1639号、1918年1月22日。
- 『官報』第1722号、1918年5月2日。
- 『官報』第2098号、1919年8月2日。
- 『官報』第2542号、1921年1月25日。
- 『官報』第2543号、1921年1月26日。
- 『官報』第2569号、1921年2月26日。